化かし上手
『化かし上手』
鴉羽神社、母屋の縁側。
封札師の子供が其処へ座り、何か見慣れぬ道具を触っていたので、鍵はふらりと覗きに行く事にした。
「坊、何をしてらっしゃるので?」
実際のところ、それが物凄く気にかかっているわけでは当然無いのだが。七代千馗という名のこの子供は、暇潰しには最も適した存在なのである。
次点は同じ神使である狛犬、鈴なのだが、あれは少々返す反応が読め過ぎていて、白札も確かに面白いがからかうとすぐ腹を立ててしまうのが面倒だ。だから、退屈な時には七代千馗の傍へ行くのが一番いい。頭も回るし勘もいい。なのに何処か甘くて抜けている、など。これほど楽しい玩具が他にあるだろうか。
声を掛けられた七代千馗は、白い陽光の中で少し眩しそうに顔を上げる。
陽に透かすと秘法眼と呼ばれるあの虹彩はきらりと複雑な色に輝くのだが、本人は果たしてそれを知っているのだろうか。つるりと濡れて滑らかな黒い色、その一枚下に細かく砕いたような光が内包されている。黄金色や白銀色、青緑。貴石の粒を散らしたような。
七代は表情無く、己に声を掛けたものを確かめるようにひとつ見詰めてから頷いた。
「ああ、これをちょっと」
板張の廊下へ置かれているのは、丁度帳面を開いたような形の白いもの。上にある面は窓のようになっていて、その中で何かがちかちかと動いている。
「…………ああ、これは、テレビというやつですかい?」
羽鳥家の居間にも同じものが置いてある事を鍵は知っている。四角く区切られた箱のおもてに色々なものを映し出す道具である。映るものは虚構の芝居であったり何処か遠くの風景であったりと様々らしく、かの白札が一時期不思議がって離れようとしなかったものだ。
鍵の言葉に七代は僅かに笑いながら首を傾けた。
「惜しいな。
これはテレビ見れないやつだけど、見れるやつもあるよ。
テレビじゃなくて、これは、ノートパソコンってやつ」
七代の言った言葉に今度は鍵が首を傾げる。
「ノート…………、といってもこれは帳面の類じゃあ、ないですよね?」
「帳面的な事にも使えるよ、この中に色々書き込んで保存しとくの。
ばらばらにならないし、すぐ消せるし、便利だけど、
壊れるといきなり全部消えちゃったりするからあんまり過信は出来ないかもな。
自分の管理次第だろうけど」
鍵の首が更に傾斜した。
「この中に、どうやって書くんで?」
「それは、こうやって」
訊ね続ける鍵に対し、七代はゆっくりとキーボードの上で指を滑らせてみせる。
「ここ、見える?
俺が今打ったの、しちだいかずき、って。
画面のとこにちゃんと字が出ただろ?」
「、おや本当だ」
「字の書いてあるボタン、これがキーって言うんだけど、これが鉛筆の代わりなの。
だからこの中に色々書いて……例えば、メールって判る?手紙を送れたりもするの。
日記つけたりとかさ」
「成程。
メールっていうのはあれでしょう、坊も持ってらっしゃるあの小さい箱……
けいたい、といいましたか、あれで送れる手紙でしょう?」
「そう。よく知ってんなあ」
感心顔の七代へ、鍵は肩を竦めながら苦笑した。
「何を仰っているのやら、坊がよくあれをやっているから私も自然と
覚えたんですがねえ」
「俺ってそんなによくメールしてる?」
「さあ、多い少ないなんざ私も知りやせんが、坊の携帯が鳴るのはよく耳にしやすよ。
初めは鈴がお嬢の目覚まし時計の音かとよく勘違いしてたもんです」
「成程ね。
携帯も時間セットすれば目覚まし時計みたいに使えるんだけど、センセイは多分、
してない、な」
慌てて支度をする羽鳥朝子の姿を思い出しているのだろう、七代は呆れと言うには柔らかくて近しい笑みを浮かべている。
鍵にしてみれば。七代千馗がこうした表情をするたび、胸郭の何処かに凍傷めいたものが這い広がるのだが。
この子供が己の下へ敷かれた道について何処まで知っているのかは判らない。けれど知らないとしても、知っているとしても、どちらにせよ愚かな事だと鍵は思う。彼も彼の周囲のものたちも皆、鍵には到底理解し得ぬ愚かさ。ひどくにんげんらしい、愛すべき、愚かさだ。
「なあ、鍵」
一瞬己の思索に落ちた鍵の指がいつのまにか七代に取られていた。
「ここ、ちょっと押してみて。
俺がさっきやったみたいにさ」
指が、ノートパソコンとやらの上へ導かれる。鍵は七代が言うように、人差し指でひとつそれを押してみた。
白いところにぽつりと、押した通りの文字が現れる。
「そうそう、かな入力に切り替えたからここに書いてるのを押したら
そのままの字が出てくるよ」
「……こう、ですかい?」
「そう、結構早いな……ちなみに濁点とかはこれ、で、これ押すと漢字になる」
「勝手に漢字になるとはこりゃまた呆れるくらい便利に出来てやすね」
「だから、人間はどんどん馬鹿になっちゃうの。ちゃんと脳は鍛えないとな」
「しかしまあ、如何にして楽をするかっていう人間の努力は常々すごいもんだと
思いやすがねえ」
鍵、と、鈴、と。
話している間にそれぞれの名が書き上がった。七代はそれを見て嬉しそうな顔をしている。
「ほら、出来たし。結構面白いだろ?」
「そうですねえ」
鍵は素直に頷いた。ただし、端末の事ではなく、七代の表情や反応を眺めているのが面白かった、という意味で。
「これさ、部屋の机のとこに置いてるから、使ってない時は別に触っていい」
彼の突然の提案に、鍵の思考が一瞬止まった。
七代千馗は微笑んでいる。先刻と同じ、あの柔らかさを含んだ笑みで。
「、は?」
まさか、彼の疑似家族の中に自分も含まれているわけでもないだろうに。
「ここのスイッチ押すと使えるようになるから。
俺もこれ、OXASのデータベース見たりするのに使ってるだけだし。
顔も判んないどっか遠くの人と今みたいな字で会話する事も出来るんだぜ。
すごいだろ?」
鍵、と子供は狐の名を呼んだ。
この電脳というあやふやで曖昧な世界の中でなら、たとえ視認されずとも、誰かと繋がる事が出来る。見えなくても、鍵という存在の輪郭を知らせる方法がこの中に在るのだと。そう言って笑っている。
「いい暇潰しになると思うけど?」
彼の言葉を聞いて鍵は、危うく零れてしまいそうになった笑みを慌てて飲み込んだ。
この子供は。己が暇潰しの為に使われている事に気付いていたのである。鍵の抱く退屈も。子供らしく無防備に笑っているかと思えば、意表を突くようにとても聡くて。だから鍵は、七代千馗に構う事を止められないのだ。
「ま、変なサイト見られるとアレだけどな、大丈夫だろ多分」
七代は何やら呑気に呟いている。
確かに聡いのはいいけれど、それでもやはり彼は後一歩、認識が甘い。それは彼が殊、己自身の事になると判断が鈍る所為だ。
鍵は、それでもやはり理解しきらぬこの歯痒い子供へ、腹立ち半分からかい半分で言い掛けた。そこまで判っているのにもう一歩理解してくれない七代千馗が悪いのだ。鍵にとって一番面白いものが何であるのか、当人であるにも関わらずまさか気付かぬとは。