化かし上手
「………………お心遣いは大層嬉しいですがね、坊」
七代の黒い眼が鍵を映す。
そこに掛かる同じ色の髪を、鍵の指先がさらりと浚った。相変わらず少しひんやりとしていて癖の無い髪。
「私の退屈を紛らわせてやろうっていう坊のお言葉には全く涙が出やすが…………、
実はねえ、坊、私ら神使は、母屋にゃ入れないんですよ。
人間の住む領域にはね。
私らは此処でただずっと地を守るだけ。見守るだけです。
すいやせんねえ、折角言って下さったってのに」
間近に覗く眼がひとつ瞬いて、ほんの少しだけ先刻よりも大きく開いた。
「……………………入れない?」
「ええ。私らはあの像に縛り付けられた存在ですから。
外から見てるだけなんですよ、坊」
鍵の声音は存外といい芝居になった。音が低く落ちて成程とてもそれらしい。継いで言うと、今度は明らかに七代の眼から光が陰り、睫毛が下を向く。
「…………」
悲嘆、悔しさ。それらが混じり合っておもてに滲み、七代の表情となってそこに現れた。
鍵の為に憂う、悲しむ。七代千馗の心の波は、それを眺める鍵にとって思った以上の喜びになった。
けれど、喜んでばかりもいられない。
彼の髪から指を逃がし、ついでに彼との距離も取っておく。
「、じゃあ、なるべく縁側に置いとくから、」
七代は悲嘆に暮れながらも負けずに方法を模索していたらしい。
言い掛けた七代の言葉に鍵の笑い声が被る。こういったものは引き際が一番肝心なところである。
「いいえ、坊」
すいやせん、と先に謝っておく。
「……いいんですよ、嘘ですから」
声音が笑いに震えぬよう、鍵は難しい努力をした。そう言われた七代千馗の方は、鍵の予想通りの顔をして瞬きを繰り返している。
「………………………………何処が、嘘?」
努力が足りなかったらしく、鍵の口許からふと息が漏れてしまった。袖で口許を被い、くつくつと笑う。
「……貴方が先日熱を出した時、私は看病して差し上げたんですがねえ?
残念だ、ちっとも覚えていらっしゃらないんで?
鈴に水を持ってこさせて、それを私が坊に飲ませてねえ。
あの時坊はひどく熱い手で私の袂を握ったまま離してくれなくて、
坊が落ち着くまで頭を撫でて差し上げてたんですが…………」
鍵の言葉が七代の耳に入り、脳に伝わり、意味を解する。
鍵が言っているのはつまり。つまりは。
母屋に入れないどころか、七代の自室にまでもう既に
「、上等」
理解が及べばそれからは早い。
突っ掛けに爪先を詰めて刹那、七代の足がくるりと弧を描いて狐へ降り掛かった。
「おおっと」
予め構えて距離を離していた分、鍵が有利である。七代の放った蹴りは掠りもしなかった。
「おやおや、坊は看病をされるとこうして蹴りで礼を返すんで?
そりゃああまり感心しやせんねえ」
のらりとかわしながら鍵は笑って首を傾ける。己の笑みが七代を更に焚き付ける事を、ようく理解した上で。
「それはどうも、有難う、
けど、人に礼を催促する前にテメエが謝れっ?」
一歩踏み込み、左を軸足にして回し蹴り。七代の足が空気を斬り、突っ掛けから散った砂粒がぱらぱらと鍵の方へ舞い上がった。それを掌でひらひらと払いながら鍵はまだ笑っている。
「だから、さっき先に謝ったじゃないですか、」
「よし判った、ぜったいなかす」
腰を落として足を払い、それを鍵は軽やかに跳ねて避ける。成程、狐らしい身のこなしだと七代は思いながら眼を閃かせた。
七代は、自分ではお人好しでも優しくもないつもりである。だから受けたものは二倍以上、それが叶わぬならせめて等倍にて返してやらねば。跳ねる鍵の、着地するところをきらりと見据え。
とらえた
左から勢いを乗せて踵を振り被り、そうして鍵めがけて思い切り振り抜いた。七代の狙いは正確だった。
鍵が、しまった、と思ったのと手が勝手に動いたのはほぼ同時である。
がちん、と。
ひどく堅い金属音が、よく晴れた鴉羽神社の呑気な空気の中に吸い込まれていく。七代と鍵は双方全く違った思いでそれを見、沈黙した。
「お、前……」
突っ掛けの裏から、濃い灰の煙が細くたなびいている。
七代の足は、鍵の煙管によって、ぴたりと見事に止められたのだ。
鍵は。するりと音無くそれを己の袂の中へ引いて仕舞い込み。曖昧な笑みを浮かべる。咄嗟に動いてしまった己の掌を甚だ恨めしく思いながら。
「…………あー、その、坊、
や、さすがに坊でやすね!恐れ入りやしたよ。
洞では専ら射撃武器ばかり使ってらっしゃるようだが、素手の格闘でも充分にお強い。
いやあ、さすがです」
そう言ってみたものの、そんなもので七代が誤魔化されてくれる筈も無く。
「まじで、上等だな」
体勢を整える七代からすっかり先刻の怒りが抜け落ちているらしいのは良いのだが。鍵は七代から眼を逸らした。
「…………何がです?」
「何なの、爪を隠すのは狐も同じなの?」
顔を覗き込んでくる七代はとても皮肉気な笑みを浮かべている。
「生憎と仰る意味が判りやせんねえ」
「お前のボケに付き合う気は無えなあ」
「坊は何を仰りたいんで?」
「そりゃひとつしか無えでしょうよ?」
何処か鍵の調子を真似ながら七代がにやりと笑う。そこから覗く白い歯が妙に肉食獣めいて見えた。
「次から洞行く時、お前も面子に入れるから」
すっかり獰猛になった子供が口にした言葉はやはりとんでもなかった。鍵はうんざりと頬を引き攣らせる。
「ははは、坊、ご冗談を。
冗談にしてもそりゃ全く面白くありませんや」
「うん、別に冗談じゃないからさ」
「いやいや、何を仰います、坊?
私はこの社、この地を守る神使でやすよ?お忘れですかい?
そりゃあ洞へ赴かれる坊の手伝いなら今まで通り惜しみやせんがね、
それはどうしたって無理です」
さっさと端末を閉じている七代は聞いているのか聞いていないのか。鍵の方には眼も向けず。
「神使ならもうひとり居るだろ」
「、や、鈴は、御存知の通りまだ駆け出しで。
鈴ひとりに任せるなんてとんでもない」
すっかり先刻と立ち位置が逆になってしまった。
どうしたものかと鍵が考えていると、七代はそのまま立ち上がり。そして首だけを此方に向けて、ふと、息を抜くように笑う。
「…………けどさ。
ずっと俺のもっと傍に居れば多分、退屈なんかは感じないと思うぜ。
よくそう言われるしな」
黒い色の眼がまた、光を受けて輝いている。鍵の視線が自然とそれへ引き寄せられた。
「もっと近くで、俺と一緒に洞を歩き回って、隠人と戦って。
そしたらさ、悪趣味でつまんない暇潰しなんか思い付かなくなるんじゃない?」
そう言う七代の声音にはしかし水気は既に無い。
地の脈を辿って様子を遠方から探るのではなく。この子供のすぐ傍で、共に。己の眼で直接、七代千馗の戦うさまを眺める、それは。
鍵は脳裏に思い描いてみた。
それは恐らく、とてもとても、面白い事だろう。だからこそ苦笑するしか無かった、共に行けないというのは残念ながら嘘では無いのである。
「……………………大層魅力的過ぎる申し出、有難うございやす。