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赤い糸

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雨の中。

その温もりだけが。

僕の道しるべだった。


音無が冷たいと感じるようになったのはいつの頃だろうか。
直井は天使や教師に見つかるとあまりいい状況にならないとわかりつつも、
安全であるSSS(死んだ世界戦線)の本部の校長室でない屋上で、
1人、本を読んでいた。
だが、読んでいるという表現は適切ではない。
本の内容は目には映るものの、直井の中に吸収されなかった。
「…音無さん」
呼んでみる。
もちろん、音無が屋上に繋がる扉を開けて、やって来て、
『どうした、直井?』
と呼びかける事もなかった。
ふわりと風が吹き、ページを揺らす。
直井は時計を見る。
生から強制的に”開放”された死の無いこの世界で、
時計を見るのも滑稽だと思いつつも、直井は時計を身につけていた。
ほとんど意味の無い”生徒会副会長”の身分のせいだろうか。
直井にはわからなかった。
時計の針は本日の授業終了を示していた。
直井はぱたんと本を閉じた。
屋上を出て、廊下を歩く。
NPC達の声が聞こえる。
直井にとっては愚かなとも言える存在であるNPC。
けれど、今の直井にとっては少し羨ましいとも感じられた。
この苦痛とも言える気持ちに支配されている直井にとっては。
直井は校長室に寄ろうか迷う。
音無に会いたかった。
けれど、また冷たい対応を取られるかと思うと、足が凍りつきそうになった。
「…」
直井は寮の自分の部屋に足を向けた。
自室。
ベッドと机、クローゼット以外はほぼ何も無い、
個人を特定するものを置いていない部屋、それが直井の部屋だった。
帽子、上着を脱いで、ベッドに寝転がる。
手をかざして見た。
生前の、陶芸をしていた頃の形跡が残っていない華奢な手。
「音無さんと違う…」
前に音無の記憶を取り戻す時に、握り締めた音無の手。
男らしいごつごつした手で、そして。
「温かかった…」
直井はその感触を思い出そうとする。
途端、体が震えた。
「嫌だ…」
直井は必死にその感情を、欲を否定する。
「僕は神なんだ…」
誰もが笑うこの思想。
けれど、今の直井にとってこの思想こそが唯一、直井を立たせるものだった。
唇を噛む。
鉄の味がした。
直井は無理矢理眠った。

次の日。
また意味の無い朝がやって来る。
直井は起き上がる。
シャツが少し皺になっていた。
直井はシャツを脱ぎ捨て、新しいものに取り替える。
そして、上着を羽織り、帽子をかぶる。
NPCが着る制服。
SSSの制服を着ないのは、音無以外のメンバーとは一線異なる事を主張する為だった。
直井は今日はどこで時間を潰そうか考えながら部屋を出た。
廊下を歩く。
窓から降り注ぐ光が見えた。
今日も晴れのようだ。
屋上に行こう。
直井はポケットに入れてある文庫本を布越しにそっと触れた。
その時、いた。
「…っ」
直井より大きな背中。
その体の温もりは直井自身が知っている。
「音無…さん」
胸が高鳴った。
音無は珍しく1人のようだ。
直井はいつものように話しかけるべきか迷う。
すると音無の顔が少し下に傾いた。
「天使っ!?」
音無の視線の先には天使が、立華奏がいた。
天使は音無に近づき、音無に話しかけている。
「…なんで…?」
天使が分身と吸収され、
攻撃性の高い分身の天使が残ってしまった事はSSSのメンバーなら、誰でも知っている。
結局、天使は敵で、SSSのメンバーはもちろん、音無とも敵対をしているはずだった。
だが、音無の表情は柔らかく、敵と応対しているとは思えなかった。
やがて、音無と天使が歩き出す。
方向を推測する。
多分、向かう先は学食。
直井は思い出す。
まだ直井が音無と敵対していた頃、
音無と天使が学食で何かを食べていた事を。
あの時はその情景を見ても、何も思わなかった。
音無すら単なる小さな障害物程度としか思っていなかった。
けれど、今は違う。
そのような情景、見たくなかった。
けれど。
直井は、歩く。
NPCに妨害されない程度に早く。
向かう先は、学食。
音無に気づかれないように歩いていた。
学食は朝食を食べるNPCで賑わっていた。
「…音無さん?」
直井はNPCに触れないように音無を探す。
音無は窓側の席にいた。
天使と一緒に。
また何かを食べている。
白い皿とは対照的な赤い色。
麻婆豆腐だった。
辛すぎて誰も食べないと言われている。
けれど、音無と天使は食べていた。
音無はゆっくりと、天使はある程度早く。
そして、音無が笑った。
直井は、限界だった。
「…何をしているんですか?」
音無に応対しているとは思えないほど、低い声で。
まるで、音無を知らなかった頃のように。
直井は音無に話しかけていた。
「あっ…」
音無は少しバツが悪そうにしていた。
一方、天使は何も表情を変えずに麻婆豆腐を食べている。
「天使と何、仲良くしているんですか、音無さん?」
「い、いや、その、俺は、奏と偶然、会って、俺たちと仲良くするように…」
音無の視線は彷徨う。
嘘である事は明白だった。
直井は、辛かった。
「”生徒会長”」
直井は嫌味交じりに天使に話しかける。
天使は漸く、直井を見た。
「音無さんに何の用ですか?」
「…更正」
天使はぽつりと呟く。
確かに音無はこの学校で言う”不良”で、それを更正させる為に、音無に構う。
辻褄は合っていた。
だが、直井は何かが引っ掛かっていた。
分身と統合する前にも音無は天使と仲良くしているところを度々、見かけた。
それを見るたびに直井の心が張り裂けそうだった。
今もそうだ。
否、あの時以上に、胸が痛かった。
この痛みで、死ねそうなほど。
けれど、死ねないのは現実世界もこの死の無い世界も一緒だった。
「と、とにかくだ。俺は奏とご飯を食べているだけで…」
「いい加減にして下さい!!」
学食が一瞬、静かになった。
それ程、直井の声が大きく、鋭く、そして、悲しみに満ちていた。
「僕の、いえ、僕たちの目的は何ですか!?貴方はいつだってそうやって、ふらふらと…」
「俺は…その」
音無の口調が歯切れが悪い。
何かを隠している。
問い詰めたい。
言わせたい。
言わせる事は出来る。
音無に催眠術を使えばいい。
けれど、したくなかった。
直井はそれほどまでに音無を大切に想っていた。
「授業」
ぽつりと天使が呟く。
いつの間にか天使の麻婆豆腐の皿が空になっていた。
その皿を持って、天使が立ち上がる。
「結弦、副会長、授業」
すたすたと、直井の叫びなど無かったかのように天使は食器返却口に向かった。
「直井、俺…」
音無が直井を見る。
目を細めた、悲しい瞳だった。
「…そんなに天使が大切なんですか!?」
「そうじゃ…」
「僕じゃ…駄目なんですか…」
「直井、何を言って…」
音無が立ち上がり、直井の肩に触れようとする。
直井はその手を振り払った。
「なお…い?」
「どうして、いつもは冷たいくせに、どうして、こういう時だけ優しくするんですか!?」
「それは…」
「貴方は…残酷です…」
直井は走った。
「直井!?」
直井は既にNPCが少なくなった学食を走った。
模範生としての仮面を持つ直井にとっては致命傷にも近かったが、どうでもよかった。
ただひたすらに駆けた。
作品名:赤い糸 作家名:mil