恋のはじまり
「佐藤さん。佐藤さんのせいで相馬さんが変です」
キッチンに入るなり、山田は料理中である俺に構うことなくそう言い放った。心当たりがあるだけに非常に不愉快だが、とりあえず何か答えないとなという妙な責任感が沸き起こる。持っていた調理用の酒瓶を横に置き、完成に近かったフライパンの中にあるソースを皿のハンバーグにかけて適当に盛り付けカウンターに置く。
「…あーたぶん俺だな。相馬どんなだ」
煙草をふかしながら山田を見ると煙たそうな顔で山田は答えた。
「休憩室で一人馬鹿みたいに笑ってます」
あーそりゃ重症だ。俺だって予想外の行動で自分自身戸惑っている状況なんだからよく分かる。
まぁ確かに笑うしかないよな、男にキスされたら
首に手を回してどうすっかなーと考えを巡らせる。
どうせあいつは今日は上がりだ。しかもその前に俺も休憩入るから入れ代わりでバイトの間はなんとかなる。
だが、今日の夜、どうするかだ。
気まずいからといって今日会うのを止めてしまうとたぶんこの先ずっとこの気まずいムードを引きずることになるだろうし、もしくはなんかしら相馬が手を打って、このことを逆手に自分を上げる持ちネタにするかもしれない。
やっぱり動くなら今日しかないか
複雑な状況にふうと何度目かになる溜息を吐くと、黙り込んだ俺を訝し気に見ている山田に声をかけた。
「…相馬のことは俺がなんとかするからちょっとキッチン外れるわ」
大きく目を見開き自分を見つめる少女に対し、ぽんと頭を一叩きする。
「…ほれ、飴やるからこの場はお前に任せた。何か注文がきたら轟呼んでくれ。あいつ一通り何でも出来るから」
「…初めて佐藤さんに期待されました」
感動に瞳を潤ませる山田に少したじろきながら、心の中では…出来れば任せたくないんだが、今この場にはお前しか状況知らないからな。と語りかけて自分を納得させる。無駄に状況を聞かれるのは面倒なんで、適当にこの場を上手くやり過ごすことが最善であろう
「まーそういう訳で頼りにしてるよ、山田」
「任せて下さい!山田、頑張ります」
調子の良い声に片手で応え、俺は休憩室へと足を進めた。
「なんだその顔」
「来てほしくなかったって顔だよ」
はぁと深い溜息を目の前で繰り広げ、何で来たのと言葉を繰り返す。
「パセリ、手伝ってやるよ」
「…ふーん、そう。はい、パセリ」
にっこりパセリだけ渡すとひらひらと手を振る。なんだか段々腹が立ってきた。
「お前、分かってやってるだろ」
「残念ながら轟さんほど鈍く頭は出来ていないからねぇ」
「…怒ってんのか」
なんと切り出していいものか分からず、曖昧にそう尋ねる。
ちょっとした沈黙の後、再度溜息を吐き、相馬の顔がこちらに向けられる。
「ねえ、佐藤くんさ、轟さんはどうするの」
ちらりと俺に目線を送り、綺麗な笑顔を作りながら言葉を続ける。
「四年も続いた片思いに終止符を打つの?しかもこんな形で」
「相馬」
「止めた方がいいよ。馬鹿な行動は身を滅ぼすよ」
かたりと座っていた相馬が立ち上がり、ほんの少し下から俺を見据えて距離をつめる。いつもはなんてことのない距離が、動揺で、緊張で、身を固くなるのを人事のように感じていた。小さく笑い相馬は酷く小さな声で呟いた。
「うん、やっぱり馬鹿なのは俺だけで十分」
呟かれた言葉とともに、深く口を重ねられた。ドアを背に、誰も入ってはこれない絶妙なその位置に気づいたのは唇を重ねる行為を何度か繰り返した後で、高揚した相馬の表情が妙に艶かしくて、気付いたらしばらくの間その行為に興じていた。
やがて気が済んだのかなんなのか、俺から身体を離した相馬は、俺を見るなりキッチンに戻ると切り出した。急な態度の変わり様にしばらく言葉が見つからなかったが、喉からああと短く答えを搾り出した。
「もうあんま時間ないから、佐藤くんが休憩している間は俺がキッチンにいるよ。ああ、迷惑かけちゃったかなぁ…轟さんに」
呆けている時に、どきりとする人物の名前が出てきて一瞬身を固くした俺の様子に、相変わらずの胡散臭い綺麗な笑顔で俺に微笑みかける。
「ついでだからさ、轟さんにも休憩勧めてみるね。佐藤くん、嬉しいでしょ」
「…相馬、お前」
「怒ってるって質問まだ答えてなかったけど、答えはイエスだよ。精々答えの出ない自問自答を楽しんでね」
こうなると爽やかすぎるその笑顔が恐ろしいものに見えてくる。 こりゃ相当怒ってるな。 煙草をポケットから取り出し、火をつけて自分を落ち着かせる。
「…はー、まぁお前の怒りは最もだからな。付き合ってやるよ、その仕返しに」
煙を吐き出すと溜め込んだ膿が出ていくような、そんな錯覚を起こす気分だった。轟も相馬も、どちらにしても俺の胃はこいつらに犯されている。そう考えたら笑えてきた。いつだって俺に踏み込んで、荒らして、めちゃくちゃにしていくのはお前ら二人だよ。
「今日来るんだろ」
「そうだね」
「じゃ、早めに終わらせて帰るよ」
だからお前ももう行け、と手で追い出すそぶりをすると、パセリを抱えた相馬がはいはいと部屋から出ていく。
あー胃が痛ぇ。ついでに胸も痛い。
あと何日、いや何年も持つのかこれで俺は
きりきり痛み出すその慣れた痛みといつまでも慣れない痛みに、何もない机に突っ伏した。吐いた煙が天井に溜まっていく。窓を開けなきゃなとぼんやり考えながら、厨房でキスした時の、さっきそこでキスした時の、相馬の顔を思い出す。
相馬が可愛いなんて、俺は認めない。
だけど余計に増えたこの鈍い痛みが確実に俺を侵食している。
俺はさっき、キスしてどうするつもりだったんだ?
あいつのいうように答えの出ない自問自答は、煙草の煙と同じように溜まっていき、やがては自分を覆い尽くしてしまいそうだった。
立ち上がり、窓を開け、水道を捻りその水で胃薬と書かれた小鬢から錠剤を数個飲み下して、煙草を再度燻らせることで落ち着きを思い出し、また机に突っ伏しては煙を深く吐き出した。
「轟さん、ごめんね厨房までやらせちゃって。今佐藤くんが体調悪くて休ませた所だから、様子見るついでに轟さんも休憩しちゃいなよ」
「…まあ!大丈夫かしら、佐藤くん」
「たいしたことじゃないと思うよ」
死にかけている者に対しても追い打ちをかけるのを忘れない、そんなやり取りが扉の向こうで行われていることなどまだ知ることのない彼が、このあと嫌というほどそれを味わう羽目となるのは先の話である。
「あーあ、切り札が一個減っちゃったしなぁ。またぼちぼちやりますか」
厨房では他愛無い独り言を言うように、鼻歌を歌いながら料理を作る、彼の姿があった。