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紫煙の向こう側

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 平和島静雄はその喧嘩の強さを当主に買われてここで働いている用心棒だ。酔っぱらいやガラの悪い客から遊女を守るため、というのが建前だが、実際は見世から逃げたがる遊女を逃がさないためという話は聞いている。僕が臨也さんの仕事を手伝うようになってからは、危険が多い僕を守るようなこともしてくれるようになった。彼は臨也さんと以前から何らかの因縁があるらしく、僕が彼と契約を結んだ日に傍にいなかったことを未だに悔いているのだという。

「…僕は傷ついてなんて、いませんよ」

 実際、僕が客を取るようになって、見世は一段と繁盛し、吉原随一ともいわれるようになった。自分の雇い主の見世が流行ることは静雄にとっても間違いなくプラスになるはずで、それで僕は彼を安心させたつもりだったけど、当の静雄さんは苦虫を噛み潰したような表情を見せるだけだった。そして、自分に苛立ったかのようにぎりっと歯を噛みしめると、そのまま勢いよく羽織りごと僕の腕を引いて、その力強い腕の中に閉じ込められた。

「し、静雄、さん…?」
「悪ィ、けど見てらんねぇ」
「何、を…」
「わざわざ俺が留守のときを狙ってオマエに会いに来たあのノミ蟲にも嫌気がさすが、一番不甲斐ないのはお前を救えなかった俺自身だ」

 それでも、見世に雇われているという立場上、僕の行動を制限することもできない。自分の気持ちと立ち位置との落差に葛藤しているのは、静雄さんのほうなのかもしれない。だけど僕はこの人がいてくれるお陰で何度も救われたんだ。
 僕は大丈夫だと、心配しないでと、震える静雄さんの腕を掴んで口を開きかけた時、

「シズちゃん、帝人君は俺のだよ?用心棒風情が近づかないで欲しいなあ」

 聞き慣れた、声。耳も突き抜けて脳や心臓に直接語りかけるような、ぞくぞくするような声だった。反射的に静雄さんの胸を押し返す。勢い良く振り返るといつもの笑みを浮かべた臨也さんがそこに立っていた。顔では笑ってるけど目が笑ってない。こんなことは、初めてで。

「テメーこそ、よくそうやって毎回帝人の前に姿見せられるな。いったいどんな条件を出してコイツに近づいた?内容によっちゃあぶっ殺す」
「やだなあ、そんなの…、君に教えるわけ、ないよね?」
「臨也、テメ…」
「や、やめて下さい静雄さん、僕がやるっていったんです。情報屋の手伝いを」

 僕の手を離して今にも臨也さんに殴りかかろうとしていた静雄さんが、僕の一言で動きを止める。僕が自分から告げたことに臨也さんは驚いたように喉を鳴らしたけれど、怒りはしなかった。

「手伝いって…、客を取ることでか?お前、そんなことのために自分を」
「じ、自分で決めたこと、なんです」

 ただ漠然と遊女としてやってきた自分が、初めて自分の意志で決めたこと。初めて見世に逆らった行動を起こしたこと。
 この場所でずっと静雄には守られるばかりだった。その手に何度も救われてきた。だから言わなければいけないと思ったんだ。
 静雄さんは怒りを無理やり閉じ込めるように、強く握った拳を下ろした。それを見て臨也さんは満足げに笑うと、僕の手を引いて自分の方に引き寄せる。

「今から帝人君の客はこの俺なんだ。情報戦の戦果を聞きながら可愛がるとするよ。番犬はせいぜい見世の前でも守ってることだね」

 僕の肩を抱いてひらひらと手を振り、歩き出そうとした臨也さんの背に、静かな怒りが込められた声が投げかけられた。僕の腕を掴んで止めた静雄さんが、その両手でふわりと僕の耳を塞いで、

「ノミ蟲、てめぇ帝人のこと何だと思ってんだ。自分につなぎとめるためとはいえ他の客取らせてイヤじゃねえのか…、しかもその直後に自分が、なんて…。何考えてんだ」

 耳を塞がれた僕に静雄さんの言葉は分からなかったけど、それを聞いた臨也さんの顔が、今まで見たこともないくらい苦しげに歪んだので、それに目を奪われて内容が気になっていたことなんて忘れてしまった。
 でもその表情は一瞬。すぐにそれはいつもの臨也さんの余裕たっぷりの笑みの後ろ側に影を潜める。

「シズちゃんこそさあ、いつまで用心棒なんて位置に甘んじてるつもりなの?客として帝人君に触れることもできない、見世に雇われてるから帝人君を自由にしてあげることもできない、身分違いで想いも伝えられない。そんな場所で、本当に満足してるわけ?」

 今度は苦しそうな顔をするのは静雄さんのほうだ。何を話してるのかは知らない。でもその原因が僕だってことだけは確かだった。
 僕は自分の立ち位置と同じ、何もできずにそこにいるだけだ。自由を求めているくせにこの場所を手放すこともできない、自分が忌々しい。

「テメーだけはいつか絶対殺す。二度とその手で帝人に触れらんねーようにしてやる」
「言ってなよ。吉原一の花魁に触れることもできない用心棒と上客の俺じゃ、勝負は見えてるけどね」

 ようやく耳に置かれた手が解かれて初めて聞こえた声は、自分を取り合うような言葉の応酬で、あり得ない事態に混乱しつつも僕に考える時間は与えられなかった。
 すぐに臨也さんに手を引かれ、座敷へと向かう。すぐにその日の報告をすることになるだろう。静雄さんは苦しげな表情を浮かべたまま、反対側へと歩いていった。



 渡り廊下から見える外は、相変わらずの景色。
 夜に生きる街・吉原の、華やかで儚い雑踏だった。




作品名:紫煙の向こう側 作家名:和泉