きみにさよならする日まで
Act.01
あのバカ天使、次に会ったらほんとうにけちょんけちょんにしてやる。
ギシギシと木の鳴る音とべたつく潮風、そして鼻先をくすぐる磯の香りを感じながらアメリカはその誓いを心に刻んだ。
目の前に広がるのは突きぬけて宇宙まで届きそうな青空と、最近では見ることもなくなった船のマスト。それに、遠慮なく輝く太陽だ。
ゆらりと身体を起こしてみれば、視覚情報となんら変わりなくやはり船の上にいた。しかももうすっかり見かけなくなった、映画の中でしか見ないような古いタイプの船だ。
「うーん、おっかしいなあ」
ほんの数秒前までたしかにイギリスの家のリビングにいたはずなのだが、ここはどこからどうみても船の上だ。
夢だろうかと頬をつねってみて、その痛みに眉をしかめる。
夢ではないらしいが、とても信じられない。瞬間移動なんて非現実的だ。タイムマシンなんてすばらしい文明の利器が開発されたなんて情報は入手していない。
古くて汚れが目立つ木の板の上で座り込み、両手を組んで思考を巡らせる。
たしかにイギリスの家にいたのだ。新しい映画を撮るために情報を提供してほしいとお願いをしていた。仕事の邪魔だといつもみたいにキーキーうるさいイギリスをたしなめていたら、彼が顔を真っ赤にして怒り狂いだした。
そして急に天使みたいな服装になったと思ったら先端に星のついた変なステッキをだして、大声で叫んだのだ。
「そんなに海賊の情報が欲しいんなら、自分で見てたしかめてこいボケがあ!」
次の瞬間、ハッと気づいたらここにいた。
もしかしてステッキを振ったときに出てきたあの変な白い煙には、幻覚を見せる作用でもあったのだろうか。あのとんでもない人がすることだ。それもありえるかもしれない。
けれどまあ、幻覚でも夢でもなんでもいいが、とにかく良くできているとは思う。感心して空を見あげていると、背後からゆっくりと近づいてくる靴音が聞こえてきた。
カツカツという硬質な音と、ギシギシ鳴る木の床を踏みしめる音。その音につられて背後を振り返り、アメリカは思わず目を見開いて固まってしまった。
「い、いぎりす……?」
「よお、こんな海の真ん中で御客人とは驚いたな。それにしても、人さまの所有する場所に上がり込むときは挨拶するっていうマナーもしらねえのか、クソガキ」
凶悪な顔でこちらを見下ろしてくるのは、間違いなくイギリスだ。
けれどいつもきっちりとした服装を好む彼にしては色も装飾も派手な服を着ている。頭にもやたらおおきくて安定の悪そうな帽子を被っているし、なにより腰に帯剣しているではないか。法律で禁止されてるはずなのに、どうしてそんな物騒な物を持っているのだろう。
「おーい、ちゃんと俺の声聞こえてんのかあ?」
驚きに声もでなかったアメリカに汚く舌打ちして、イギリスは腰に差している剣に右手をかけた。
すらりと音もなく抜かれた剣先がまっすぐにアメリカに向けられる。なんのためらいもなく首筋の、しかも急所を確実に狙って向けられた剣とイギリスを交互に見つめ、アメリカは眉をしかめた。
アメリカのこれまでの時間は、ほとんどイギリスと共に流れてきた。自我が目覚めたころにはすでにイギリスと出会っていて、そのまま彼とつながりを持ったままここまで来た。
だから、アメリカにはわかるのだ。
彼はイギリスであってイギリスではないと。
もちろん、ホラー映画のように顔面の皮膚をべりと剥がせば別の人間が出てくるだとか、イギリスの身体に悪霊がとりついているだとかいうわけではない。
ここにいる彼が、アメリカの知っているイギリスとは違うのだ。
バカだあほだとイギリスには言われるが、アメリカとてほんとうにバカであほなわけではない。
だから、わかる。
向けられる視線の温度。アメリカを傷つけることに迷いのない態度。そして、じっとこちらを見つめて浮かべるうすら寒い笑みも、アメリカの知っている『イギリス』は持っていなかったものだ。
けれど目の前にいるイギリスはあくまでもほんとうのイギリスだ。アメリカの知るイギリスになる以前の『イギリス』に違いはない。
そうなれば話は簡単だ。複雑そうに見えて単純なあの人は、どんなに性格が違おうと本質はなにも変わらない。
可愛いものや動物が好きで、うまくもないのに料理を作ってはふるまおうとしてみんなに逃げられて傷つき、極悪非道な態度の裏で実はだれよりも寂しさを感じている。
ならば、いまアメリカがどうすべきかもわかる。
「イギリス」
ぴくりとのど元に突きつけられている刃先が動いた。瞳にもわずかにだが困惑の色が混じる。しかしそんな瞳もすぐにぎゅうと細められ、飢えた獣のような表情でアメリカを睨みつけた。
「……てめえ、どこでその名前を聞いた」
「聞いたんじゃない、知ってるんだぞ」
また瞳に困惑が混じる。強く見せようと必死に虚勢を張っているくせに、アメリカのいう言葉ひとつひとつに反応するのが面白くて、思わず笑ってしまう。
「なに笑ってんだ、クソガキッ」
「ああ、ごめんよ。ちょっとおかしくって。ちなみに俺はもう三百歳は越えてるんだからクソガキはやめてくれよ」
アメリカもおなじ国であることをにおわすと、ハッとしたようにイギリスが剣を引いた。そのタイミングを見逃さず、アメリカはすこし横に逸れていた剣の刃を右手でつかむ。
イギリスに怪力だと言われるアメリカも、さすがに手の皮は普通の人とおなじものだ。よく鍛錬された剣の刃が指の関節に食い込みじりじりと痛みを生むが、身の安全を守るのなら右手の皮くらい一枚でも二枚でも犠牲にできる。
「お、まえ……っ!」
「とにかく剣をしまってくれないかい? ちゃんと話をさせてくれよ、イギリス」
「……っ!」
「お願いだよ」
まっすぐに視線を合わせて真摯な口調でそう言うと、イギリスは苦虫をかみつぶしたようにぎゅうと表情を硬くする。
アメリカにはいまイギリスがなにを考えているか手に取るようにわかった。
彼は迷っているのだ。アメリカがほんとうに国である保証はない。イギリスの名前を『知っている』という確証もなく、どこかで情報を得ている可能性もある。
この得体のしれない客人を招いてもいいのか、ここで殺すべきなのか、イギリスはあのちいさな頭の中で必死に考えているのだろう。
正直なところ、アメリカにはここで素直に殺されるつもりなどない。本気で彼が剣を振るえば止められる自信はあるし、最悪ここから海に飛び込んでもどこかの島まで泳ぎ切れる体力もある。
けれど、目の前にいるのはどんなに悪人面をしていてもイギリスだ。
だから信じている。きっと彼は剣を引くはずだと。イギリスは、真剣に話をしようとしている人間を問答無用で切ったりしない。アメリカの知っているイギリスとはそういう人だ。
右手に握りしめている剣の刃がすこし動いた。どうじに手のひらに痛みが走り、ほんのすこし血が滲むのがわかる。ここでイギリスが思いっきり刃を引いたら大惨事になるだろうなとぼんやり思っていると、イギリスがハアと溜息をついた。
「手を離せ」
「えっ」
「手を離せと言ってるんだ。このままじゃ話もできないだろ」
「じゃ、じゃあ、聞いてくれるんだねっ!」
作品名:きみにさよならする日まで 作家名:ことは