物語の少年
放課後に訪れる図書室、エーリッヒはその空気が好きだ。
一日の喧騒を終えて、やっと訪れた静寂に安堵するような空気、こつこつと足音のみが響き渡るようなどこか温かな静けさが好きなのだ。
閉館の時間もそろそろ迫ろうかという時間、人の姿もほとんどない中に、エーリッヒはやってきた。
多少、足取りを弾ませながら。
今借りていた本がちょうど読み終わって、その続きを探しにやってきたのだ。
ありふれたドイツの田舎の町の、ありふれた少年達の小さな冒険と友情とを書いた物語で、特筆するほどの傑作とは言えないのかもしれないが、どこか自分に重ね合わされる少年たちの様子が心を惹いた。
主人公の一人は、我が儘で、居丈高で、自信家で、けれど本当は見せないだけで優しくて努力家で勤勉な少年。
たまたま手に取っただけの本を読み進めていくうちに、幼馴染みに酷似した登場人物に、エーリッヒは目を丸くした。
それから、彼の紡ぐ言葉、突き進む行動にいちいち心を動かされた。
あのひとならこうするだろうか、思い描く幼馴染みの姿はどれも生き生きとして、もしも彼がこの物語の中に入っていったのなら、さそがし楽しい毎日が待っているのだろうと思った。
高い位置の本棚に正対する。
たしかあの辺だったかと、指を伸ばす。
一冊分の隙間を見つけて、そこに持っていた一冊を返した。
代わりに、隣の一冊をゆっくりと抜き出す。
それなりの重みでエーリッヒの手に抱えられたその表紙は、少し日に焼けた背表紙とは違って鮮明な色で本のタイトルを浮かび上がらせている。
早く帰って続きを読もう、そんな風に内心で笑みがこぼれた時だった。
「…それ、面白いのか?」
突如、横合いから声がかけられて、はたと顔を上げるとそこには、
「よお」
同じクラスの少年がひとり、立っていた。
「面白い、と、僕は思います。最近読み始めたばかりなんですけど」
素直に感想を述べると、少年はそうかと呟くように答えた。
彼は何か本を探している様子でもなかったが、なんとなくエーリッヒが本の貸し出し手続きを終えるのを待っているようだった。
手続きを終えて目線を送ると、ああうん、と小さく頷くので、そのまま二人で並んで歩き始めた。
放課後の廊下は静かだ。
今日の授業はもうすべて終えている。
後は荷物を取りに行って、それからもう帰るばかりなのだが、
「……何か、僕に用事でも?」
何を喋るわけでもなくずっと隣を歩き続ける級友は、しかしなかなかエーリッヒのそばを離れようとしなかった。
昔から一緒に学んでいる彼とは、仲がよい方の部類に入るのだろう。
基本的にシュミットと行動を共にしていることの多いエーリッヒだが、もちろん他の生徒とも何か共に活動する必要があればする。
もともとの知り合いであったシュミットが同じ学舎にやってくるまでは、むしろ彼といることが多かったかもしれない。
大抵の場合彼はエーリッヒに好意的で、年相応に乱暴で、我が儘で、善良だった。
もちろんエーリッヒの方も彼を嫌いではなかったし、友人としてはとても得難い人物であるとも思っている。
そういえば、彼と二人だけで歩く、などというのも久しぶりなのか。
「お前、さ………」
エーリッヒに尋ねられて、それからやっと何か言いにくそうに口ごもって、少年は足を止めた。
「はい?」
歩みを止めた少年はエーリッヒより一歩半分だけ遅れて、エーリッヒは体を捻って振り返る。
善良な彼は今まで大抵の場合、エーリッヒには笑顔を向けてくれていたのだが、
今は、
「大丈夫なのか?」
何かを堪えたような表情に行き当たる。
大丈夫なのか、と聞かれた。
「………え?」
何を言われているのかが分からなくて、怪訝そうに聞き返す。
ぐっと詰まって、それから少年は一度下向けた顔を何やら決意のようなものと共にぐいと上げ、息せき切ったように話し始めた。
「あいつに、いいように使われてるんじゃないのか、お前、いつもあいつの言いなりだろう?あいつ、我が儘だし態度は大きいし、エーリッヒは優しいから、無理して付き合ってるんじゃないかって、その、」
心配なんだよ。
それはおそらく彼にとっては心からの気遣いだったのだろうと思う。
彼には多分、故意の悪意は欠片もなくて、純粋にエーリッヒを思っての言葉であったのだろうとわかった。
それは分かったが、しかし、
「お前、本当に大丈夫なのかよ。俺たちとも全然付き合わなくなって、全然、俺たちなんか、全然、……」
「…………、」
徐々に勢いをなくして尻窄みに声がかすれていく。
エーリッヒは何と声をかけたものか迷いながら、それでも何か話さなければと名を呼ぼうとした時だった。
ぐい、と腕を掴まれた。
(え………?)
「お前さ、あんな奴と離れて、俺たちのところ、戻ってこいよ」
"あんな奴"
「俺のとこ、戻ってこいよ」
引き寄せられて、真剣な切迫したような瞳が迫る。
「俺、さ、お前のこと、ずっと、」