物語の少年
扉を開けると、木の扉はかたんと音を立てた。
夕日の沈む部屋で机に凭れかかっていた少年が、音に気付いてこちらを向いた。
表情なく窓の外を見つめていた顔が、エーリッヒを見つけた瞬間にふいと和らぐのが分かった。
「遅かったな」
それを見とめて何故か、泣きたいような気持ちになった。
誤魔化すために、小さく頭を下げる。
「すみません」
「別に謝らなくてもいいが」
ゆっくりと足を踏み入れて近づくと、シュミットが置いてあったエーリッヒの荷物を抱え上げた。
ほら、と差し出されたそれを受け取る瞬間に、指が触れる。
細くて白くて綺麗なそれに、どきりと心臓が波打った。
さっき自分を掴んだ腕とはまったく違うそれ。
いつでも傍にあって、
自分に触れる、いつでも優しい、
「…………エーリッヒ?」
「……! ……すみません、何でも、」
ないです、言おうとして、遮られる。強い瞳に。
「何かあったのか」
それは疑問というよりは、断定の口調だった。
荷物を持った腕の手首をくいとつかまれる。
「………何も、ないですよ」
顔を背ければ何かあったのだと認めてしまうようなものだ。
視線を逸らさずに辛うじて言ったというのに、
「嘘をつけ。そんな顔して何もないわけがあるか」
それはあっさりと見破られる。
かけられるのはいつもと変わらない、強い口調。
エーリッヒを心配しているのだということは、エーリッヒには分かるのだが、おそらく他の人間には伝わりにくい。
シュミットの優しさはいつも少しだけ不器用で、だからこそエーリッヒには愛おしいのだが。
それが他人に誤解を生むのだと思うと、少し悲しいような気がした。
"我が儘だし、態度は大きいし"
知っている。
実際にそんな部分があることは。
けれどそんな言葉の何がシュミットの本質をとらえているというのだろう。
"無理してるんじゃないのか"
無理?
無理なんてしていない。
しているというのならばそれは、彼と共にあるための無理だ。
共にありたいと思うのはむしろ自分の方で、
「何でも、ないんです」
何でもない、そうだ、何でもない、こんなこと。
シュミットがいつも通りにいてくれさえすれば。
自分も変わらず笑って立っていればいいのだ、そばで、そばにいて。
まるで、自分のすべてを否定されたような気がした。
他人がどうでも関係などなかった、それなのに、彼のもとにいる自分をそんな風に見られていたのが悲しかった。
彼に寄せる信頼も寄せられる思いも何かもかも、二人だけのものだ。
二人だけで大切にしてきたものだ。
他人がどう思おうが関係がないと思っていた。
それなのに、それを踏みにじられたようでそれがたまらなく悲しかった。
関係ないと言いきれない、平然と笑い飛ばせない自分がいた。
なんて弱いんだろう。
シュミット、
弱いんだ、僕は。
こんなことで、簡単に足元が揺らぐ。
だからあなたのそばにいたい。いてほしい。
どんなに僕が弱くても、シュミットがいつも通りにいてくれさえすれば、自分は立っていられる、そばに、そばで。
ぐいと肩をつかまれる。
真直ぐな瞳が自分を捉えて、つかまれた肩の強い力にびくりと心が震えた。
目だけは、逸らせない。
下を向くことが大嫌いなこのひとの、傍にあることを決めた日からそれは自分に許していない行為だ。
必死で顔を上げる。
「何があった」
自分を見つめる瞳の強さに、眩しさに、ぐらりと視界が揺らぐ。
いつだって変わらない強い瞳は、今も変わらずに、自分だけを視界に入れて、強いまま。
「僕は、………」
好きだと言われた。
ずっと好きだったのだと。
腕の中に収められて、ここに戻ってこい、と、
戻る?
そんな場所、エーリッヒにとってははじめから一つしかないというのに。
シュミット以外の人間にそんなことを言う権利などない、もうずっと昔から。
「僕は、」
「エーリッヒ?」
「あなたが、……好きです」
「………知って、いる」
「それでも、聞いてください。僕は、あなたが、」
好きなんだ。
誰かに否定されるのが嫌で仕方がないくらい。
誰にも何も言われるのも嫌なくらいに。
「好きなんです、シュミット」
「……エーリッヒ」
引き寄せられて、どさりと荷物が落ちた。
足元に落ちたそれには、しかし二人とも目も向けなかった。
シュミットの肩に額を乗せる。
背中に回った手が、ぎゅうと回り込んで肩を抱いた。
「シュミット、」
三度繰り返そうとして、遮られる。
「もういい、わかったから」
もういい、と、髪に落とされた唇が小さく告げた。
「お前の気持ちを疑ったことなんて、ない」
「……シュミット」
「それにそんなこと、もうずっと昔から分かり切って、決まり切っていたことだろう」
さも当り前だという口調。
けれど本当はどんな表情をしているのかなんて、エーリッヒには見なくても分かっている。
いつでも少し不器用で。
それから我が儘で、居丈高で、自信家で、けれど本当は見せないだけで優しくて努力家で勤勉な少年の笑顔。
だからこそ自分は昔からそれが大好きで、彼が大好きで、だから自分で選んだのだ。
「好きです」
噛みしめるようにもう一度呟いた言葉には、優しく背を撫でる手が応えてくれた。
分かっているからと、言葉にしなくても伝えられるだけの思いと思いで、自分たちは繋がっている。
それを再確認して、エーリッヒはひどく安堵した自分を感じる。
(好きです)
心の中の呟きまで、きっとシュミットには伝わったはず。
物語の中、二人の少年はいつでも互いを信頼しあいながら、心を触れ合わせることで成長を重ねていく。
一人は、我が儘で、居丈高で、自信家で、けれど本当は見せないだけで優しくて努力家で勤勉な少年。
そして隣には、それをどこか羨みながらも尊敬と憧憬と、単純に純粋に好意と好意だけでそばにあり続ける少年。
重ね合わされるそれを、今度は二人で一緒に読んでみようと、温かい腕の中でエーリッヒは思うのだった。
2010.6.16