幸福論未満
注意!8巻ネタが入っています。話の核心に触れない小さなネタですが、少しでもネタバレは嫌!という方は、新刊読んでからどうぞ。
幸福論には足りない。哲学には程遠い。信念でさえない。いつだって押し付けがましく欲張りで、どうしようもない恋なのです。
幸福論未満
ああ、腹立たしい。
「でさ、ヴァローナがよ、ずっっとぐだぐだ言い訳しながら食ってんだよ。美味いなら美味いって言えばいいのにさ。別に誰も馬鹿にしたりしねーってのに。帝人は甘いもの好きか?」
「はい」
いつになく饒舌にしゃべる静雄さんの言葉に、ぐるぐると嫌な気持ちがお腹の奥に凝る。日常ではなかなか会えない僕らにとって、他愛ないことをおしゃべりするこの時間はとても大切で愛しいもののはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
静雄さんが、ヴァローナさんとケーキバイキングに行ったらしい。その様子を語る静雄さんの声はとても楽しそうで、それを聞いているとなぜか苛々と悲しみが溜まっていく。
「俺も好きなんだよ。その店も、俺の気に入りの店でさ、本気で美味いのに、あいつもっと美味いところ知ってるって言うんだ」
「そうなんですか」
あなたのお気に入りのお店にヴァローナさんと行ったんですか。僕じゃなくて。
喉元まででかかった言葉を、なんとか飲み込んで、無難な返事を返す。
一応、これでも僕は、静雄さんの恋人ですよね。いつも会う時はファーストフード店で、喫茶店にも行ったこともないけど。
そんなことを考えかけて、また、慌てて打ち消す。そんなの当たり前じゃないか。僕は男で、ヴァローナさんは女性だ。一緒に行くなら、ヴァローナさんの方がいいに決まっている。あの人は美人で、スタイルもよくて、強くて、背が高くて、静雄さんとずっと一緒にいる。僕なんかとそんなお店に行っても、浮くだけだけど、静雄さんとヴァローナさんならきっとお似合いのカップルに見えただろう。
何を考えてるんだろう、僕は。どんどん卑屈になっていく思考に、自分の心の狭さが嫌になる。
「それで、あいつの気に入りの店教えてもらったんだ」
そこにまた二人で行くんだろうか。
目の奥が熱い。何だろう。
「いいですね」
震えそうな声を落ち着かせ、やっとのことで不自然にならない一言をひねり出す。
「それで、帝人、あのさ、お前明日土曜日だろ。暇あるか?」
明日。それまでに、この醜い気持と情緒不安定は落ち着いているだろうか。答えのわかっている疑問を自分自身に問いかける。静雄さんには会いたい。だけど。解答はすぐにでた。無理に決まってる。
「ごめんなさい、明日はちょっと」
「何か予定あるのか?」
「ええ、委員会のことで園原さんと用事があるんです」
「…そうか。じゃあ、また今度にするか」
「ええ、ですから、ヴァローナさんと行ってきてください」
「いや、またお前が時間できたら行こうぜ」
「いいですから」
「帝人?」
「いいから、ヴァローナさんと行ってくればいいじゃないですか。その方が僕よりよっぽどいい」
「何言ってるかわかんねえ」
「もういいんです」
口が勝手に動く。こんなこと言いたくないのに、どうして止められないんだろう。でも、これも、僕の本心なのかもしれない。
「さようなら」
そう言い捨てて、通話を切る。何をやっているんだろう僕は。本当に馬鹿みたいだ。でもこれでよかったのかもしれない。無愛想な恋人なんて放って、美人の後輩と仲を深めた方が、静雄さんのためになるだろう。その結果、僕が捨てられるとしても、こんな醜い感情で先走ってしまう僕よりも、ずっとヴァローナさんの方が静雄さんを幸せにできる。
やり場のない感情に、どんどん考えが先走る。僕は頭を振って考えるのをやめた。
今日は、おやすみって言わなかったな。寂しい気持ちになるのは、だからだと思いたい。
※
わからない。どうしてもわからない。なぜ、帝人があんな事を言い出したのか。何が気に触ったのか。いくら考えてもわからなかった。
他に行く当てもなく、茫然自失のまま事務所に出てきて、熊のようにうろうろと歩き回る。帝人の言葉が何度も頭の中でリフレインしては、心を抉る。見えない傷から溢れ出す血液のように、自身の鼓動の音がこめかみで響き、さらに静雄を苛立たせた。
「静雄、どうしたんだ?」
見るに見かねてか、仕事をくれた恩人であり先輩であり上司であるトムさんが、声をかけてくる。珍しい。基本的に俺が苛立ってる時には余計なちょっかいを出さない人なのに。その隣には、最近入ったばかりの後輩が珍獣でも見るような面で俺を眺めている。
それを見て、俺はようやく周りの目を気にしだした。そんなに俺は変な顔をしていたのだろうか。
「……何でもねえっス」
「何でもねえって顔色じゃねえぞ。それに、お前今日休み申請出してなかったか?そりゃ、来てくれれば俺は助かるけどよ。用事はよかったのかよ?」
核心をつかれて、肩がビクリと揺れる。予定自体がなくなったのだから、仕事が休みでも意味がない。
「その、用事がなくなっちまったんで」
「そうなのか?まあ、それはいいけどよ。で、話せるなら話てみねえか?もちろん無理にとは言わねえけどよ」
相変わらず懐の広い男っぷりに惚れ惚れする。俺も、こんな風に人を気遣える人間だったら、帝人を怒らせることもなかったのかもしれない。
わからないことをいつまでも考えていても仕方がない。ここは素直に、頭を借りることにした。
「…あー、その、トムさん。いつもおやすみって言ってくれる恋人に、さよならって電話切られたらどういう意味っすかね?」
俺の不明瞭な物言いにトムさんが眉をひそめる。
「………詳しく話せ」
「『さよなら』その単語は別離を意味します」
それまで大人しくしていたヴァローナが口を開く。不意打ちで放たれた鋭い言葉がぐっさりと突き刺さり、思わず咥えていたタバコを落とした。
「っ!ヴァローナ!お前は黙ってろ!」
「何故ですか?その要請は不当と感じます」
言葉もなく、がっくりとうな垂れる。やはり、そうか。あえて行き着くのを避けていた回答だが、もう現実を直視しなければいけない。放心する俺を見るに見かねてか、いつもの余裕を捨てて、トムさんがまくし立てる。
「おい、静雄!!落ち込む前に、前後の脈略を話せ!何か誤解があるのかもしれんだろうが!」
誤解。その言葉に縋るように、顔を上げる。そうだ、帝人は、何もなくてあんなことを言うような人間ではない。なにか俺に原因があるに違いない。昨晩から何度考えてもわからなかったことだが、トムさんならわかるかもしれない。
「実は…」
そして、ぼそぼそと力なく話された経緯を聞いて、トムはため息をついた。
「それは、お前が悪いわ」
「俺何か変なこと言いましたか?」
「お前、ヴァローナとケーキ食いに行った時に、俺もいたこと言ったのか?」
「……、覚えてねえっす」
記憶にない。というか、その時は帝人をどう誘うかで頭がいっぱいで、あまり考えて喋っていなかった。
「つまり、相手は、お前とヴァローナが二人でデートしたと思ってんだろ。そりゃ怒るわ」
幸福論には足りない。哲学には程遠い。信念でさえない。いつだって押し付けがましく欲張りで、どうしようもない恋なのです。
幸福論未満
ああ、腹立たしい。
「でさ、ヴァローナがよ、ずっっとぐだぐだ言い訳しながら食ってんだよ。美味いなら美味いって言えばいいのにさ。別に誰も馬鹿にしたりしねーってのに。帝人は甘いもの好きか?」
「はい」
いつになく饒舌にしゃべる静雄さんの言葉に、ぐるぐると嫌な気持ちがお腹の奥に凝る。日常ではなかなか会えない僕らにとって、他愛ないことをおしゃべりするこの時間はとても大切で愛しいもののはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
静雄さんが、ヴァローナさんとケーキバイキングに行ったらしい。その様子を語る静雄さんの声はとても楽しそうで、それを聞いているとなぜか苛々と悲しみが溜まっていく。
「俺も好きなんだよ。その店も、俺の気に入りの店でさ、本気で美味いのに、あいつもっと美味いところ知ってるって言うんだ」
「そうなんですか」
あなたのお気に入りのお店にヴァローナさんと行ったんですか。僕じゃなくて。
喉元まででかかった言葉を、なんとか飲み込んで、無難な返事を返す。
一応、これでも僕は、静雄さんの恋人ですよね。いつも会う時はファーストフード店で、喫茶店にも行ったこともないけど。
そんなことを考えかけて、また、慌てて打ち消す。そんなの当たり前じゃないか。僕は男で、ヴァローナさんは女性だ。一緒に行くなら、ヴァローナさんの方がいいに決まっている。あの人は美人で、スタイルもよくて、強くて、背が高くて、静雄さんとずっと一緒にいる。僕なんかとそんなお店に行っても、浮くだけだけど、静雄さんとヴァローナさんならきっとお似合いのカップルに見えただろう。
何を考えてるんだろう、僕は。どんどん卑屈になっていく思考に、自分の心の狭さが嫌になる。
「それで、あいつの気に入りの店教えてもらったんだ」
そこにまた二人で行くんだろうか。
目の奥が熱い。何だろう。
「いいですね」
震えそうな声を落ち着かせ、やっとのことで不自然にならない一言をひねり出す。
「それで、帝人、あのさ、お前明日土曜日だろ。暇あるか?」
明日。それまでに、この醜い気持と情緒不安定は落ち着いているだろうか。答えのわかっている疑問を自分自身に問いかける。静雄さんには会いたい。だけど。解答はすぐにでた。無理に決まってる。
「ごめんなさい、明日はちょっと」
「何か予定あるのか?」
「ええ、委員会のことで園原さんと用事があるんです」
「…そうか。じゃあ、また今度にするか」
「ええ、ですから、ヴァローナさんと行ってきてください」
「いや、またお前が時間できたら行こうぜ」
「いいですから」
「帝人?」
「いいから、ヴァローナさんと行ってくればいいじゃないですか。その方が僕よりよっぽどいい」
「何言ってるかわかんねえ」
「もういいんです」
口が勝手に動く。こんなこと言いたくないのに、どうして止められないんだろう。でも、これも、僕の本心なのかもしれない。
「さようなら」
そう言い捨てて、通話を切る。何をやっているんだろう僕は。本当に馬鹿みたいだ。でもこれでよかったのかもしれない。無愛想な恋人なんて放って、美人の後輩と仲を深めた方が、静雄さんのためになるだろう。その結果、僕が捨てられるとしても、こんな醜い感情で先走ってしまう僕よりも、ずっとヴァローナさんの方が静雄さんを幸せにできる。
やり場のない感情に、どんどん考えが先走る。僕は頭を振って考えるのをやめた。
今日は、おやすみって言わなかったな。寂しい気持ちになるのは、だからだと思いたい。
※
わからない。どうしてもわからない。なぜ、帝人があんな事を言い出したのか。何が気に触ったのか。いくら考えてもわからなかった。
他に行く当てもなく、茫然自失のまま事務所に出てきて、熊のようにうろうろと歩き回る。帝人の言葉が何度も頭の中でリフレインしては、心を抉る。見えない傷から溢れ出す血液のように、自身の鼓動の音がこめかみで響き、さらに静雄を苛立たせた。
「静雄、どうしたんだ?」
見るに見かねてか、仕事をくれた恩人であり先輩であり上司であるトムさんが、声をかけてくる。珍しい。基本的に俺が苛立ってる時には余計なちょっかいを出さない人なのに。その隣には、最近入ったばかりの後輩が珍獣でも見るような面で俺を眺めている。
それを見て、俺はようやく周りの目を気にしだした。そんなに俺は変な顔をしていたのだろうか。
「……何でもねえっス」
「何でもねえって顔色じゃねえぞ。それに、お前今日休み申請出してなかったか?そりゃ、来てくれれば俺は助かるけどよ。用事はよかったのかよ?」
核心をつかれて、肩がビクリと揺れる。予定自体がなくなったのだから、仕事が休みでも意味がない。
「その、用事がなくなっちまったんで」
「そうなのか?まあ、それはいいけどよ。で、話せるなら話てみねえか?もちろん無理にとは言わねえけどよ」
相変わらず懐の広い男っぷりに惚れ惚れする。俺も、こんな風に人を気遣える人間だったら、帝人を怒らせることもなかったのかもしれない。
わからないことをいつまでも考えていても仕方がない。ここは素直に、頭を借りることにした。
「…あー、その、トムさん。いつもおやすみって言ってくれる恋人に、さよならって電話切られたらどういう意味っすかね?」
俺の不明瞭な物言いにトムさんが眉をひそめる。
「………詳しく話せ」
「『さよなら』その単語は別離を意味します」
それまで大人しくしていたヴァローナが口を開く。不意打ちで放たれた鋭い言葉がぐっさりと突き刺さり、思わず咥えていたタバコを落とした。
「っ!ヴァローナ!お前は黙ってろ!」
「何故ですか?その要請は不当と感じます」
言葉もなく、がっくりとうな垂れる。やはり、そうか。あえて行き着くのを避けていた回答だが、もう現実を直視しなければいけない。放心する俺を見るに見かねてか、いつもの余裕を捨てて、トムさんがまくし立てる。
「おい、静雄!!落ち込む前に、前後の脈略を話せ!何か誤解があるのかもしれんだろうが!」
誤解。その言葉に縋るように、顔を上げる。そうだ、帝人は、何もなくてあんなことを言うような人間ではない。なにか俺に原因があるに違いない。昨晩から何度考えてもわからなかったことだが、トムさんならわかるかもしれない。
「実は…」
そして、ぼそぼそと力なく話された経緯を聞いて、トムはため息をついた。
「それは、お前が悪いわ」
「俺何か変なこと言いましたか?」
「お前、ヴァローナとケーキ食いに行った時に、俺もいたこと言ったのか?」
「……、覚えてねえっす」
記憶にない。というか、その時は帝人をどう誘うかで頭がいっぱいで、あまり考えて喋っていなかった。
「つまり、相手は、お前とヴァローナが二人でデートしたと思ってんだろ。そりゃ怒るわ」