幸福論未満
「先輩の恋人は、私と先輩が逢引をしたという疑心を所有しているというのですか。それは心外と感じます」
「その上、それをわざわざ報告したと。お前が別れたがってると思われてもしゃあねえな」
「……ッ!そんな!俺は!!」
「わぁーってるって。お前は、さりげなくデートに誘いたかったんだろ?今日休みとってたのもそのためか。だけど、ヴァローナと行けと言われた上に、今他の奴と会ってると」
思い知らされた現実は、思っていた以上に衝撃的だった。凍りついた俺に、止めをさすように後輩が淡々と言う。
「破局ということですか」
「だからお前は黙ってろ。静雄、お前もこんなところで落ち込んでる暇あったら、とっとと誤解といてこい」
「俺、どうすればいいんでしょうか?」
「どうすればいい、とは理解不能です。浮気の誤解を解くには謝罪と説得しかないことはロシアでも日本でも同じはずです。先輩は、嫉妬に所有された恋人と対峙することに嫌悪を感じていますか。何もしない選択の未来に、別離は確定です。先輩は、それを選びますか」
臆病で何もできない、拒絶に怯んで誤解すら解けない。後輩の言葉は、不甲斐ない自分を殴り飛ばした。どうすればいいか。答えを与えてもらっても尚、立ちすくむ自分はただの意気地なしだ。
「うん、こればかりはヴァローナが正しいな」
「…そうすっね。俺行ってきます!」
怖くても諦められないのなら、どんなにみっともなくてもしがみつくしかないだろう。定まった決意が竦む足を動かす。背中を押してくれた、やさしい人たちに背を向けて走り出す。
「お前、えらいな」
「私の身分はこの組織では最下位のはずです。その言葉を受ける理由がわかりません」
「いや、そう意味じゃねえんだけどよまあ、いいさ」
「静雄先輩は朴念仁ですね」
「ほんとになあ」
「私は邪魔者でしたか」
「んなわけねえだろ。ほら沈むな、甘いものでも食いに行くか」
「それは肯定のみの提案です!休憩時間には制限があります。一刻も早くの出発を要望します」
「はいはい」
※
なんて情けない。不甲斐ない。あんなのただの八つ当たりだ。朝からずっと昨日の静雄さんとの会話を何度も思い出しては、ぐるぐると終わらない思考の海に沈む。
我侭で甘ったれで、どうしようもない。
彼女の方が彼にお似合いだなんて始めからわかりきった話だ。なのに、あんなに惨めになったのは、きっと嫉妬なんかよりもずっとくだらない想いのせい。
静雄さんが僕の気持ちをわかってくれなかったこと。それが、何より悲しくて悔しかったんだ。僕がこんなに不安でいてもたってもいられないのに、静雄さんが楽しそうにヴァローナさんとのデートのことを話し続けたことが、寂しかったんだ。
馬鹿げてる。僕に静雄さんの孤独と恐れが理解できないように、静雄さんに僕のコンプレックスが理解できるはずがない。おかしなことを言って、僕は確かめたかっただけだ。静雄さんの気を引くようなことをわざと言って、静雄さんが恋人に選んだのは僕なんだって、浅ましい優越感に浸りたかっただけなんだ。
やさしいあの人に甘えて、ひどい言葉を言った昨日の自分を殴ってやりたい。静雄さんは、一方的な拒絶を一等怖れているのに。今まで去っていった人達のように、誰かが彼から離れていくことに一番傷つくと知っていたはずなのに。
頭に溜まっていく熱で、視界が曇る。ぱちぱちと瞬きをすると、浮き上がった水の膜が破れて、頬を濡らした。
やばい。今、こんなときに泣いたら、感情の波に流されて、溺れてしまう。ちゃんと考えなくちゃいけないのに。あの人にどう言って謝るか。そして、はやくこんな不安定な気持ちを落ち着けて、冷静になって、彼のところに行かなくてはいけないのに。
こみ上げてくる嗚咽を飲み込み、彼の名前を呟いた。押しつぶされそうな後悔の中でも諦められない手前勝手な想いを込めて。傷つけた。酷いことを言ってしまった。それでも、これで終わりなんてしたくないんだから、はやく、行かなくちゃいけない。少しでも静雄さんの気持ちを取り戻すために。
自分でもういいなんて言っておいて、なんて都合のいい。自嘲しても、僕が彼に捧げられるのは、ありふれた言葉でしか表せないこの気持ちだけなのだから。
ごしごしと袖で、濡れた顔を拭う。
その時、大きな音をたてて、扉が開いた。
※
前泊まりに行ったときに借りっ放しだった合鍵を使って、扉を開く。
そこには、顔を涙でぐちゃぐちゃにした帝人が、部屋の隅で膝を抱えていた。呆気にとられた顔で見上げてくるその目元は真っ赤に腫れて、胸の奥が引き絞られるように痛む。
ずっと、泣いていたのだろうか。
俺がトムさん達に慰められ、励まされている間、ずっと一人で。
ここに来るまで考えていた。何を話せばいいのか。謝れとヴァローナは言っていたが、何を謝ればいいのかわからなかった。何も帝人に恥じることなんてしていないのに、どうして謝らなくてはいけないのかと思っていた。だけど、今、ようやく俺は気づいた。俺は、自分の言葉がどう聞こえるか、ましてや帝人を傷つけるなんて考えもしていなかった。大事にしたい奴の気持ちも考えずに、自分がしたいことばかり考えて、浮かれていた。そして、こいつを傷つけた。泣かせてしまった。
後ろ手で扉を閉め、大股で帝人に近づくと、びくりと薄い肩が揺れた。まだ水分を残した真ん丸い目は、困惑に揺れている。
「え、と、あの、静雄さん、どうしてここに?」
「お前に、言わなきゃならねえことがある」
見開かれた目がさらに潤んで、赤くなった頬に一粒の雫が転がり落ちた。ああ、俺は、また、誤解させてしまったのか。しゃべるのは苦手だ。言葉を選ぶのも。しかし、これ以上溝を広げたくないなら、彼をつなぎ止めたいなら、苦手だの何だの行っていられない。
使い慣れない回路を必死で動かして、言葉を探した。
一番大事なこと。一番伝えたいこと。彼が一番誤解してること。
縮こまってしまった小さな身体を抱きしめる。情けないくらいに乱れているこの心臓の音が、少しでも不器用な言葉を補えばいい。
「帝人。お前が、好きだ。お前だけだ」
「し、静雄さん?」
掠れ、上ずった声が痛々しい。傷つけたくないだけじゃなくて、幸せにしたくて、始めた関係だった。そんな顔をさせたいわけじゃなかった。いつも帝人が差出してくれる何分の一でもいい。暖かでやさしいものを与えたくて、分けあいたかっただけなのに。肝心の帝人の気持ちを思いやることができなかった。
「悪かった。ごめんな。誤解させるような言い方してさ。あいつと行った時には、トムさんもいたし、デートとかじゃなくて、本当に単なる昼飯に行っただけだ。俺はお前を誘いたくて、変な店に連れていきたくなくて、あいつに聞いたんだ。女の方がそういうの知ってるだろ?お前がそれで誤解するとか、考えもしなかったんだ。悪かった」
「そう、なんですか。僕こそ、ごめんなさい。ひどいこと言ってしまって。ごめんなさい」