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お前にもう一度愛を込めたキスを

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「何しにきたんだ?」
 ドアチャイムを鳴らしたのは、よく見知った男だった。久しぶりに顔を見たな、と思いながらもプロイセンに歓迎の笑みは浮かばない。
 何の連絡もなしにふらりとベルリンに顔を出した男は、プロイセンが家の中を常にきちんと整頓している几帳面な男だと知っているので、屋敷の中の惨状に少し驚いたような顔をした。気持ちは分かるが、今は屋敷内のレイアウトや片付けに構っている余裕は無い。時間さえあればあれやこれやと手を掛けたい所だが、今のプロイセンは目が回るほど忙しい。目を回している時間も無い。ほんの一時目を離した隙に事態がどうなるか分からないような問題が山積みで、しかもどれもこれもが重要過ぎる。
「…好きにしてていいぜ。ちょっと今汚ねぇけど」
 そのせいで弟に構う時間すら充分に取れていない。まだ幼い弟は兄に迷惑を掛けるのを良しとしない性格なので寂しいなどと決して口にしないだろうが、それでもたまに顔を合わせると、別れ際とても名残惜しそうな目で見つめてくる。
 もう一息だ。もう少しで彼のための舞台を整える事ができる。その日を思えばどんな疲れだって気にならない。それどころかより力が湧いてくるような気さえする。

「冷たいやん」

 ふと後ろから聞こえた声にプロイセンは驚いて振り向いた。そういえば好きにしろと言っておいたのだった。スペインが執務室に置かれたソファに座ってこちらを睨むような目で見ている。
 それと同時に広い机の上に置かれた地図が視界に入って、プロイセンは一瞬それに気をとられた。中央ヨーロッパの地形が描かれた地図だ。幾つにも分かれたドイツ諸侯。今もなお強い影響力を残すオーストリア。隙あらばとこちらを狙うフランス。周囲は敵だらけで僅かな油断も許されない。
「プーちゃん」
 ようやく振り向いたもののプロイセンの視線が自分に向いていない事に気付いたのだろう、スペインが咎めるように名前を呼んだ。彼の親しげな呼び方を、懐かしいなとふと思った。それくらい顔を合わせていなかったのだと気付く。
 思い出さなかった訳じゃない。ただ本当に余裕が無かっただけだ。とはいえ、会いもせず連絡を取り合うことすらしない時間が長くなるにつれ、思い出す事すらしなくなっていたのも確かだ。本人を目の前にすると、多少ばつが悪い。
「シエスタの時間じゃねぇの。なんならクッションくらい使っていいぜ?」
 時にはそのソファで仮眠をとったりもするので、寝心地はいいはずだ。プロイセンはソファの端に置いてあるクッションを指で示すが、スペインはそれを取ろうとはしない。

「こっち来てや」
「なんだよ」

 手招きされて、プロイセンはスペインのすぐ側まで近づいた。ソファに座ったままのスペインに手を引かれて、彼の右側に腰掛けさせられる。柔らかい座り心地も張られた布の感触も申し分ない。さすが俺が選んだソファだ。
 そう思いながらせっかく座ったのだからと背もたれに体重を掛けると、隣のスペインが体を寄せてきた。ぽす、と彼の左手がプロイセンの右肩のすぐ上に伸ばされソファの背に当てられる。
「疲れてるみたいやん、一緒に寝よか」
 プロイセンの視界を覆うように位置を変えたスペインの顔が近い。誘う声は甘く、プロイセンを見つめる目には力がこもっている。
「俺にシエスタの習慣はねぇ」
 けれどプロイセンはあっさりと断った。以前ならもっと有無を言わせないような迫力を感じたものだと、プロイセンは意外に感じる。スペインはかつての力を失って久しく、今や自分はヨーロッパの強国の一人だ。おそらくそういう事なんだろう。
「まぁそう言わんで。いい習慣は取り入れな」
 優しくそう言うと、スペインは押さえるようにプロイセンの利き腕に手を置いた。
 何度もこちらの様子を案じる手紙を受け取っているのに、一通も返事を書いていない。優先順位の後のほうに押し出され、引き出しの中に仕舞ってそれきりだ。本人の顔を見ると少し申し訳ないという気持ちがこみ上げてくる。

「……お前、怒ってる?」

 プロイセンの体の上に置かれた掌に力が入る。彼に危害を加えるつもりが無い事は分かっている。そっと押され、流れに沿ってソファの上に倒された。横を向いた体は軽く肩を押され上向きに直される。被さるように真上にいるのはスペインだ。

「プーちゃん怒られるような事したん?」

 プロイセンの方から連絡を取ろうとしなかった事を、やっぱりあまり良くは思っていないんだろう。当然だ。無視されて嬉しい奴なんているはずがない。なら、わざわざここまで来たのは、それを責めるためなんだろうか。なんて暇な奴なんだ、とプロイセンは思った。
「別にしてねぇよ」
 申し訳ないとは思うが、怒られる筋合いは無い。元々、彼が勝手にプロイセンのいる所へやってきたり、プロイセンの方がふらりと彼の住む南の地を訪れたりしていただけだ。約束なんてしていない。手紙だって送ってくれと頼んだ訳でもなければ返事が欲しいと請われた事もない。返事をしなければいけないような内容だったら何も言われなくても書く。
「そっか」
 スペインが残念そうにそう相槌を打った。
「まぁプーちゃんがそう思うならそうなんやろ」
 スペインは笑ったままなのに、笑っているような気がしない。不愉快だ。
「なんだよ、その言い方」
 言いたい事があるならはっきり言えよ。苛立った口調でスペインに促すと、分かった、と簡潔な答えが返ってきた。

「俺は会いたかったわ。毎日お前の事考えとった。だからお前にも俺の事考えて欲しい」

 すぐ眼前で告げられた言葉に思わずプロイセンの耳が赤く染まる。似たような言葉は何度も言われているが、何度言われたって慣れないものは慣れない。プロイセンを見下ろすまっすぐな目に、吸い込まれてしまいそうな気がする。
 ソファに膝をついたスペインの体が少し動いて、肩の上に乗せられた掌に体重が乗った。押さえ込むような動作と共に、スペインが距離を詰めてくる。
 彼のキスは酷く甘い。抱きしめられると心地いい。その気持ちよさにずっと流されていたんだろう。
 その前に、とプロイセンは近づいてくるスペインを遮るように腕を前に突き出した。
「っ……」
 思った以上に強い力で押してしまったらしく、スペインが驚いたように目を見開く。怯んだスペインの体の下から抜け出して改めて床に立つ。そしてプロイセンに逃げられた事にショックを受けている様子のスペインを見下ろした。
「なんで俺がお前に組み敷かれなきゃならねぇんだよ」
 プロイセンのいなくなったソファを見つめていたスペインに向かって声を掛けると、罵るような口調になった。中には今まで彼の好きにさせていた自分に対しての自嘲も含んでいる。プロイセンの声にスペインが顔を上げた。

「俺のことが好きだからやろ」
「今のお前に俺が惚れる要素があるのかよ」

 なんやそれ、とスペインが声を荒げる。
 明確な始まりがあった訳じゃない。彼が海の向こうから持ってきた真っ赤な野菜を頬張りながら遠い大陸での冒険譚を聞いたり、各地での俺様の活躍っぷりを語って聞かせてやったり。ただの国同士という線を越えた付き合いをしてきたのは事実だ。それが楽しかった事も。