ターンワルツ
「アル。今年こそはうちのパーティーに出てもらうからな」
「へ?」
ガレージでスパナを片手に顔中を廃オイルと煤だらけに汚して、試作品のマシンのメンテナンスをしていたアルフレッドの元に、ネクタイをビシリと締めたいつも通りの隙の無いスーツ姿でアーサーがやってきた。
「何のことだい? いま凄く忙しいんだけど」
「クリスマスパーティーだよ! ここ数年、何かと理由つけてばっくれやがって」
アーサーの家ではイブの夜には毎年恒例の社交界が催されており、参加するのが暗黙の了解となっていた。アルフレッドも幼い頃はマシューと共に連れられて出席していたのだが、近年になると堅苦しい場を嫌って何かと理由をつけて逃げ回っていたのだ。
「えー。いやだよ、めんどくさいのは苦手なんだ」
アルフレッドはとてつもなく嫌そうにしかめっ面をしながら、紺色のつなぎの袖で額に伝う汗を無造作に拭った。つなぎの触れた傍から、白い肌に油汚れの黒い染みが付着していく。
せっかくの綺麗な顔が台無しになっていく様を見て、険しく眉を顰めたアーサーは、こめかみを指で押えてわざとらしいほど大きな溜め息を吐いた。
「いいから、早く風呂入って来い。リビングで待ってるから」
「なんでだい?」
「パーティーっつったらダンスが付き物だろ。あと三日で、最低ワルツだけでもステップをマスターしてもらうからな」
「はぁあ?」
「不本意だが俺が女役をやってやる。おら、来い」
つなぎの襟首を引っ張って強引にガレージから連れ出し、そのままバスルームに引き摺っていった。
「ダンスなんていやだよ! しかもアーサーが相手役だなんて、全然雰囲気が出ないじゃないか!」
「文句言うな! さっさと覚えりゃいいだけの話だろ」
不満そうに唇を尖らせているアルフレッドの尻を蹴飛ばして問答無用にシャワールームへと押し込むと、昔からの習慣でタオルと着替えを用意してやってから、リビングへと引き返した。
テーブルやソファを部屋の端に寄せて真ん中の部分を空け、即席のレッスン場を作りあげていく。
暫くすると、ぶすっとむくれた顔をして、風呂上りのアルフレッドが戻ってきた。濡れている髪はこごなって大量の水滴を落としており、ヘンゼルとグレーテルのように床に点々と水の後を残している。
「ああもう、ちゃんと髪乾かせっていつも言ってんだろ」
「ちょっ……」
弟の首に掛かっていたタオルを引っ手繰ったアーサーは、腕を伸ばして僅かに高い位置にあるアルフレッドの頭を掴み、ガシガシと髪を拭き出した。
「やめてくれよ! もう子供じゃないんだから」
「しょーがねぇだろ。俺にとってはいつまでもガキみたいなもんなんだよ」
「…………」
そう言った途端、不機嫌そうに膨れていたアルフレッドの顔から、ふっと一切の表情が消え去った。いつもボールが弾んでいるようにくるくると動く空色の瞳が斜め下の一点を見詰めたまま制止している。
(ん?)
冷涼さすら漂っている弟の様子に小さく目を瞠ったアーサーは、わしわしとタオルを擦っていた手を思わず止めていた。その隙を逃さず、さっと逃げるようにアーサーの手の中から逃げ出したアルフレッドは、額に貼り付いていた前髪を指先で剥がしながら、ニコリと余所行きのような笑顔を浮かべた。
「ダンスだけど、本当に教えてもらう必要はないよ」
「はぁ? ちゃんと踊れんのかよ」
「できるってば。見てなよ」
自信ありげに壁際を指差されたので、だったらお手並み拝見、とばかりにアーサーは大人しく後ろに下がって腕組みをした。 アルフレッドはツカツカと歩いていき、部屋の真ん中で立ち止まって一度だけ瞼を伏せると、顔を上げた次の瞬間からふわり、とその身体を揺らめかせた。
水鳥が翼を広げるような自然な動作で両腕が持ち上がり、架空の女性の身体をさり気なく包み込む。風の無い室内に春風が舞い込んできたかのごとく、アルフレッドの右足がなめらかに一歩を踏み出した。
弟の動作は流れるように美しかった。凛と伸びた姿勢と、軽やかにステップを踏む脚。しなやかに弧を描いた腕。一人で踊っているのに、相手をしている女性の幻が見えそうなほど、リードが上手い。優雅な仕草でターンする姿を見つめていれば、いつの間にか脳内には壮大なオーケストラが鳴り響いていた。
「マジでうめぇ……。どこで覚えたんだ?」
一通りのステップを終えて戻ってきたアルフレッドに思わず唸るように問い掛けてみると、君だよ、とケロリとした顔で返された。
「へ?」
「ちっちゃいころ、君が踊ってるのを見て覚えたんだ。実際に動いてみたのは始めてだったけど、なかなか様になってただろ?」
アルフレッドはさらりと答えて、アーサーの手の中に置き忘れていたタオルをひったくり、微かに汗ばんだ肌を拭いた。
見よう見まねの動作コピーだけで、普通、あそこまで上手く踊れるものなのだろうか。
弟の常軌を逸した才能を空恐ろしく感じつつ、アーサーは口をへの字に曲げた。
「それだけ踊れるんだったらいいじゃねーか。パーティーの何が嫌なんだよ」
不満を露にして睨み付けてやると、弟も負けず劣らずのじっとりとした睥睨を閃かせてソファの背凭れに腰を下ろし、腕組みをした。
「俺がこの世で最も嫌いなのは、卑怯者と偽善者だ」
「それが何だよ」
「社交界なんて見栄と嘘と建前の巣窟じゃないか」
うんざりするように肩を竦めて、アルフレッドは空色の瞳を燻らせた。
確かに、社交場に集まる人種といえば社会的に高い地位を持っていて、望めば大抵のものが手に入る裕福な家系にあるにも関わらず、功名心の類も人一倍凄まじいと言う野心家たちが殆どだった。より強大な名誉を手に入れるために、普段は口も聞きたくないほど毛嫌いしている相手とも平気で会話をして笑顔で相手の腹を探る。いかに相手を陥れて、自分の立場を優位に保つことしか考えていないのだ。
「仕方ねーだろ、所詮どこの世界でも弱肉強食なんだ。自分が生きていくために相手を蹴落として何が悪いんだよ」
何を今更、とってつけたような綺麗事を言い出すのだ。アーサーは怪訝そうに瞳を眇めた。
むしろお前だって破竹の勢いで成長を遂げている当事者ではないか。象並みに面の皮が厚い神経を持ち合わせている弟から発されたとは思えないナイーブな台詞に、アーサーは違和感を感じた。
兄の思惟を察したのか、アルフレッドは渋々といった調子で、重い唇を開く。
「……アーサーだって、俺のこと、あることないこと、いつも言いふらしてるくせに」
陰の篭った棘のある口調で不平を告げられて、アーサーは 「……ん?」 と目を丸くした。
心当たりは、無くはない。庇護下に置いている複数国の中でも、やはり一番大きな存在感を持っているのはアルフレッドで、顔を合わせる大抵の人物がアルフレッドのことを訊いて来た。華やいだ場所で下手に悪口など言うわけにはいかないので、面と向かっては絶対に言えない様な称賛の類の言葉を並べていたことは事実だったのだが。
(そういうことか……)
理由を聞いて、アーサーは何かを思考するように形の良い顎に指先を沿えた。
「つまりお前は、俺が他所の奴にお前の話をしているのを聴くのが嫌なわけか?」
「…………そうだよ」