赤い羽
「…………」
複数の足音が近付いてきたのを察知し、アルフレッドはレーダーやコンソールに向けていた視線を浮上させた。
計器類の微量な光を見逃す事の無いよう、照明をぎりぎりまで抑えられた臨時の司令室は、どうも気分が滅入って仕方が無い。肺の中に溜め込んでいた悪い空気を吐き出して、ゆっくりとした動作で立ち上がる。
傍らに控えていた部下に指揮権を預けて、専用に設えられた個室へと移動した。
後を追うようにして、鋭いノックが二回続き、来訪者の存在を伝える。
「開いてるよ」
声高に促すと、若い兵士数名に続き、彼らに両脇を拘束された青年が、項垂れた状態で引き摺られて入室してきた。本来は抜けるような純白だったのだろう軍装の布地を、赤黒く悲惨な状態に汚した青年は、漆黒の髪を揺らせて億劫そうにこちらを見上げる。
陶器人形のように冷たく、無機質に整った顔立ちの中で、唯一瞳だけがギラギラと憎しみに近い憤怒に揺れていた。
「…………」
神経の細い者だったら射殺されているような視線を、片眉すら動かさずに受け止めて、アルフレッドは冷笑を浮かべる。
「ようこそ。敵国の陣へ」
「…………」
菊は、恐らく支えられていなければ一人で立つことも儘ならない状態なのだろう。彼の右足は、太ももから足首に掛けて、どす黒い濁色に染まっていた。目を覆いたくなるほどの凄惨な傷だったけれど、当の本人は苦悶に表情を歪ませることもなく、さらりとした冷涼さを保ったままなのが憎らしい。痩せ我慢も、ここまで来れば立派な表彰ものだ。
「君としたことが、随分と無様な姿を曝しているね」
「……ええ。せっかくの対面でしたのに、服を変える余裕も無くて、すみません」
「言うなぁ」
たっぷりと皮肉を織り交ぜて挨拶したら、倍以上の当て擦りが返ってきて、驚くよりも笑ってしまった。
「全く。何で君はそんなに頑固なんだい?」
張り詰めた場の雰囲気を和ませようと、大袈裟に肩を竦めてお茶らけて見せたが、菊の表情筋を1ミクロンも動かすことができずに惨敗を喫した。冬の夜空を思わせる漆黒の瞳は、淀むことなく近くて遠い前だけを見据えている。
地べたに伏してもなお、崇高さを失わない眼差しは、とても美しいけれど、同時にとても憐れに思えて仕方がなかった。
(そんなに気を張り詰めてばかりじゃ、そのうち壊れてしまうよ)
長い旅路の途中で、ずっと踠くように羽ばたき続けて、もし羽根を休める機会が訪れたならば、それは憩を取る為ではなく、命そのものを終える時なのではないかと危惧したくなるほどに、菊の生き様は性急だった。敵対している身でありながら不実だとは思うけれど、純粋に彼が心配なのだ。
蝋燭は、灯る炎が大きければ大きいほど、燃え尽きてしまう速度も速い。
「じゃあ、ここからは真剣な取引だ」
負けじと眉間に力を入れて、アルフレッドは目の前の小柄な好敵手を睨み返した。形ばかりの威嚇に脅えるような脆い精神を持つ相手ではないと解かり切ってはいたけれど、わざと無知を装って高慢に言い放つ。
「降参するんだ。俺はもう、これ以上君を傷付けたくない」
「愚問ですね」
冷笑に伏して、菊は要求を一蹴した。
口元をいびつな形に吊り上げて、挑発するようにアルフレッドを仰ぎ見る。
「敵に情けなど掛けられたくはありません」
言うや否や、菊の黒髪がふっと風に紛れた。
「!」
一瞬の隙を衝いて兵士の拘束から外れた菊は、自身の倍近い身長の男の鳩尾に電光石火のスピードで拳を突きたてると、もう片方の男には、首根に鋭い手刀を入れて、思わず取り落としてしまった銃器を、まんまと強奪してみせた。怪我人だからと油断していた兵士たちは、瞬時に何が起きたのかを理解できずにただ瞠目するより他に術が無い。
誰もが動けないでいる中、菊の構えた銃口が、真っ直ぐにアルフレッドへと向けられた。
「う、撃て!」
背後から、複数の息を飲む気配と、銃を構える音が聞こえて、アルフレッドはハッと後方を振り返る。
「待て、撃つな!」
発しかけた制止の声は、しかし鋭い発砲音に無残にも掻き消された。硝煙のつんとする匂いが鼻腔に充満し、望まない展開が訪れてしまったことを伝える。
後方に控えていた兵士の発砲した銃弾は、菊の左肩を一直線に貫いていた。バッと血しぶきが上がり、埃っぽい空気中に鮮やかな緋の花が散る。
「――――……」
その場に崩れ落ちた菊は、羽でも生えているかのようにゆっくりと、音もなく地面に突っ伏した。掌から滑り落ちた黒い小型の拳銃は、予想通り安全装置がしっかりと施されたままの状態で、少し離れた場所にカラカラと転がる。
その気になれば、コンマ数秒のうちにレバーを解除し、発砲、若しくは応戦することが出来た筈だ。それだけの技術を、彼は持っていた筈なのに。
(撃つ気なんか、これっぽっちも無かったんだ)
意識を失った菊に尋ねる術はないけれど、絶対に近い確信を抱いて、アルフレッドはギリリと唇を噛み締めた。
「……馬鹿だな」
撃たれるために、撃つ真似なんかして。そんなの、自傷行為よりも、よっぽど性質が悪いじゃないか。
自分で自分を傷付ける事は、ある意味とても簡単だ。必要なのは己の覚悟のみで事足りる。刃物なり銃なりをその手で握り締めて、指先を数ミリ動かすだけで、目的を完遂することが出来てしまうからだ。
しかし、何らかの事情で自らを傷付ける行為を禁じた者は、引き金を他人の手に委ねざるを得ない。余程の殺人狂でない限り、好き好んで他人を傷つけたがる者はいないだろう。
だから、焦れる。
虚を願う心が肥大し、焦燥の末、精神を蝕んでいく。
冷静な判断力に定評のあった菊が、ここ数カ月の間に沈着性を欠き、無鉄砲とも取れる攻撃で特攻を繰り返していたのも、複雑に歪み軋んだ精神状態が原因だったのだと、今さらながらに悟る事が出来た。
「彼のことは俺に任せて、君たちは下がっていいよ」
背後に控えている兵士たちに低く下知を下し、退却を促す。しかし、年若い兵たちは、菊の壮絶な覚悟を目の当たりにして、まだ硬直したままでいるらしい。
「は……、でも」
「早く! 言うことを聞くんだ」
戸惑う彼らに向かい、鋭く一喝すると、兵士たちは肩を震わせて敬礼し、足早に立ち去って行った。
閑散とした床の上に、二人きりとなった空間で、アルフレッドは漸く溜めていた息を吐き出すことができた。
「菊」
ゆっくりと歩を進めて、緋色に染まった衣を身を纏う彼の元へ片膝をつく。
出血と疲労で昏倒した菊は、驚くほど幼い表情を晒していた。意識のある限り、百合の花のように純潔さと凛然さを保つ彼が、張り詰めた糸を解いた瞬間のように思えて、アルフレッドはその強く儚い精神を悼まずにはいられない。
撃たれる直前、心の底から安堵したように、僅かに細められた瞳が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
(なんて切ない顔をするんだ)
忘れられる訳がない。
愛しい人を想って、想って、それでも叶わない恋に己の凡てを捧げる少女のような、純粋無垢な黒い瞳も。聞こえない声で、三文字の言葉を象った唇も。
(嫉妬しちゃいそうだよ。柄にもなく)