静寂に願い事
でも、嬉しかったんだって。何よりも、一番。静雄さん、お話しませんかって笑顔で言った君が。ただ、何の目的もなくだらだらとつなげた会話が。投げかけた声に、当たり前みたいに君の返事が返って、ただ、それが。
嬉しかったんだって、さ。
「馬鹿だよね」
二回も馬鹿呼ばわりをして、新羅が顔をくしゃりとゆがめる。ああ、泣きそうな顔だと帝人は思って、きっと自分も今同じような顔をしているんだろうなと、うつむいた。
そんなことが一番のことだなんて、本当に馬鹿だ。
もっと素敵なことが人生にはたくさんあるのに、と帝人は手を握りしめた。この手が、この足が、動かなくなったとき静雄はどうするんだろう。この口が、声を出せなくなったら彼は、一番好きで我慢していた会話をそのまま二度とできなくなってしまったら。
静雄は、その時、どうなってしまうのだろう。
帝人はそうなったら死んでゆくと分かっているけれど。
静雄は。
「新羅さん」
優しい人だから。あの人は泣くのだろう。
優しい人だから。決して帝人に聞こえないように、声を抑えて泣くのだろう。血が出るほど自分の手のひらを握りしめて、心の底から悲しんで。
泣くのだろう。
そんな風に泣いてほしくは、ないのだけれど。
「・・・僕は、いつごろ死ぬんでしょうか」
渇いた言葉に、新羅が小さく息を吐いた。
後悔がない、わけではない。
ただ多分、帝人は、最初の最初からあきらめていたのだ。生き続けることを、勝手に、自己満足で、あきらめて。そのせいで静雄に、こんな馬鹿みたいな願掛けをさせてしまったのだろう。
新羅は迷ったように息を吸って、小さく小さく言葉を吐き出した。その返事を耳が拾って、帝人の瞳は、命じてもいないのに勝手に涙をこぼす。
止まれ、止まれ。
帝人は祈る。
僕が泣いていたら、あの人はもっと泣いてしまうじゃないか。
握りしめた手のひらに力が入らず、そんなことで、ああ僕はもうすぐ死ぬんだなと、そんなことをいまさら実感した。
そんなときでさえも、まぶたの裏に浮かぶのは、あの金色ばかり。
息を吸う。
吐く。
帝人はガラス窓に手をついて、顔をぎりぎりまで近付けて静雄を見つめた。
外は雨が降っているようで、いつものように光が静雄の髪を明るく照らすことはない。静雄はいつものように無言で、けれども、帝人の顔を見た瞬間にはっとしたように息をのんだのがわかった。
いつもは距離をとるその体を、初めて、ガラス窓のそばへと寄せてくる。
何かの予感が、あったのだろうか。
サングラスの奥の瞳は揺れ動いていて、不安と困惑を混ぜ合わせたような色をしていた。この人はいつもここに来るときこんな目をしていたのだろうか。帝人はそれを思うと申し訳なくて、たまらなくなる。
間近で目を合わせたのは久しぶりだ。
帝人はゆっくりとゆっくりと、静雄の顔を見つめた。耳の形、前髪がどのくらい目にかかるのか、唇の色、鼻筋のライン。一つ一つを丁寧に、丁寧に、覚えていられるように見つめた。あと何度こんな風に、見つめることができるのか分からない。真剣な帝の視線に、静雄はゆるゆると形相を歪め、そうして遂に、耐えきれないとでも言うように唇をかみしめた。
歯の、白。
震える唇が、形だけで帝人を呼ぶ。
「・・・静雄さん」
答えるように名前を呼び返して、けれども、それ以上には何も言えずに、帝人はガラスに額を付けた。室温と同じ温度のガラスは、よく磨かれていて、向こう側がよく見える。
僕はもうすぐ、死ぬんです。
そう言おうと思ったけれど、多分、帝人の顔をみただけで、静雄はそれを悟っただろう。だったらせめて、もう諦めて名前を呼んでくれないだろうかと帝人は思う。
静雄の声をはっきりと、覚えたい。
もう一度、名前を。
懇願する代わりに、まっすぐに見つめた静雄の目に、迷いが見えた。
どうすればいい、とその目が問う。俺はどうすれば、と。
静雄の中ではその願掛けは、必要なものなのだろう。優しい人だから、情に厚い人だから、仲良くしていた帝人が死ぬなんて、簡単に受け入れられないのだろう。
嘘だろうと、嘘だと言ってくれと静雄のまとう空気が言っているようだ。何かの悪い冗談だろうと。けれども冗談だよと笑ってあげることは、帝人にはできず、2人の間に存在するガラスを取り払うこともできない。
しばらくそうして見つめ合って、静雄が恐る恐るというように、手を動かした。ガラスについている帝人の手のひらに、向こう側から自分の手を合わせる。
ほんの少し前までは、当たり前のように触れることができた手のひら。ああ、それが当たり前だと思っていたころに戻って、もっとよくその感覚を確かめていればよかったと、そんなことばかりを悔やむ。
自分の手より、ずっと大きな静雄の、力強い骨格。不器用な指先。少しあれていた皮膚の感触。いつも怪我ばかりしていた、その、手。
どのくらいの温度だっただろう。どのくらいの細さだっただろう。柔らかさは、感触は?無菌室の床が少し高いせいで、丁度目を合わせやすいところにある静雄の顔を覗き込む。
目と目を合わせたなら、どちらからともなく、涙がこぼれた。
しずおさん、もう一度小さく呼ぶ。
間近な位置で、息を吸う。
静かに、静かに、吐く。
幽かに曇ったガラスに眉を寄せて、静雄は悔しそうに顔をゆがめる。
そして静雄は息を吸って、その名前を呼ぼうか迷って、それでもまだ、希望を捨てたくなくて口をつぐむ。代わりにガラスに唇を寄せた。
言葉はなく。
温度もなく。
息使いさえ、届かない。
ただそこにはもどかしい想いと。
触れたいという、聞きたいという、願いと。
捨てたくない希望だけが間にある。
ガラス越しに合わせた唇の温度は、永遠に、感じられないものだったとしても。
そこで吐いて吸った吐息が、互いの呼吸に交じるまでに長い時間を要するとしても。
この体温がせめて、移るようにと手のひらに祈る。
祈る。
ごめんな、と静雄は泣いた。
どんなに帝人がそれを望んでも、名前を呼ぶことはできない。それは静雄の希望を殺すことだから。
ごめんなさい、と帝人も泣いた。
どれほど静雄が願いをかけても、長く生きることはできない。ガラス越しのキスくらいしか、静雄に思い出をあげることはできないから。
ただ一つ、整理のつかない、宙ぶらりんのままの気持ちが、ぐるぐると帝人の中で渦を巻いて、やがてそれが一つの単語に集約されていく。
ああ、そうだったのか。
そうだったのか、お互いに、同じように不器用で。
泣きながら静雄が、ただ黙って帝人を見つめる、その距離感。その無言の中にしか伝わらない何かが確かにそこにあって、今帝人は、ようやくその想いに手が届く。
ああ、それは。
もっとお互いを温かく、包むような感情だったはずなのに。こんなときに気付いてしまった。そして気付いたことを、静雄にも、気付かせてしまった。
涙で滲んだ世界の中、脳裏を離れないその金色に。
恋をしている。
たぶん、生涯最後の。