かわいい
『かわいい』
東京新宿西口方面に在る鴉乃杜学園、放課後。
壇燈治は、いつものように友人、七代千馗と共に帰宅しようと思っていたのだが、七代には何か所用があるらしかったので、しばらく屋上でぼんやりと時間を潰していた。
七代千馗という男がやってきたのが本当に最近である事や、起こった事件の事、そうして七代と共に帰路へ着く事が習慣として己の身に染みついてしまっている事について考えていると、すぐに半時間程が過ぎ。内心苦笑しながら、壇は待ち合わせ場所である下足ホールへ向かい始めた。
七代の所用の内容を訊かなかったのでどれくらい待てばいいのか判らなかったのだが、七代はもう来ているのだろうかと視線を巡らせていると。不意に壇の耳が、男子生徒のものらしき声を拾ってしまった。
「七代さ、お前、壇の事、怖くねえの?」
壇の足先がぴたりと止まる。
他ならぬ、己の名である。しかも、それと並んで吐かれた名は。
声の主はすぐ其処に居るようだったが、下駄箱の背が高いので互いの姿を認める事は無い。壇はその場に立ち止ったまま、呼吸を殺した。
じわりと。止まった足の裏のあたりから、黒い色の焦燥がゆっくりと身を這って立ち上る。飛び込んできた男子生徒の言葉が、壇の中で歪に繰り返され続けた。
「こわい?」
壇にとっては大層聞き覚えのある声が応える。運動部や帰宅しようとする生徒たちの喧騒の中に在っても、すっと空気を割って響くような、通る声。見知っているが故にそう聞こえるのだろうかと少し不思議に思う。
「怖いだろ普通。
七代は知らんかもだけど、アイツ、相手が何人でもお構いなしだって。
ケイサツの世話にもなってるらしいしさあ」
「俺、おんなじクラスんなった時びびったもん」
口々に吐かれる遠慮の無い声。下駄箱の向こう側で壇は、重い息をほんの僅かにだけ零した。
今、壇の中に湧いているのは紛れも無く、怒りというものである。面と向かっては言えないくせに陰ではああも遠慮無く言い募る、陰口というものの卑怯さに。それを七代千馗に向かって吐いた事に。けれど、その怒りに身を浸しながら壇は同時に、諦めのようなものを感じてもいた。壇はちゃんと、彼らの言葉が事実である事を認めている。己が何度も警察署に連行されたのも、相手の人数を全く考慮などしないのも、本当の事。だからこれは、本当の意味での陰口では、無いのだ。
壇は右の拳を握りしめた。
己が怒りを感じる事自体おかしい事なのだ、己にはそんな資格は無い。そう言い聞かせて呼吸を深くする。
そうして思うのは、七代千馗の事である。悪い評判の付き纏う壇が共に居る所為で、七代をこういう類の事に巻き込んでしまう。ただその事が、壇をひどく傷付けた。
「ああ………………、俺も、壇のそういう事はよく知らないなあ。
そんなに興味も無いし。
まあ、アイツが俺に話したくて話すんなら聞かんでも無いけど」
壇の感傷を余所に、温かくも冷たくもないような七代の声が相変わらずの調子でのらりと応えた。
「興味無いとかって、そんな程度なわけ?七代。
割と一緒に居んだろ?
よく知らねえで自分もなんかに巻き込まれるかも知れないじゃんか」
「巻き込まれる…………、ねえ」
七代は少し笑っているようだ。
七代の事情に巻き込まれるかたちで加わっているのは壇の方だったし、そもそも壇のそういった荒事に万一七代が巻き込まれたとしてもあの身体能力である、並の不良学生では掠り傷ひとつ負わせる事も出来はしないだろう。男子生徒は七代の事情を何も知らないのだから無理も無いのだが。
「このへんでは有名なやつだぜ、壇ってやつは。
駅前でよく他校のやつと乱闘起こしてるっていうしなあ……」
「乱闘って、怖!」
続く噂話に、七代は、はあ、とか、ふうん、とかいう返事をし。
「うーん、俺はアイツの事、こわいとは一度も思った事無いけどなあ」
相変わらず軽く、簡単に、そう言い。
「…………まあ、強いて言うなら、こわい、っていうか、かわいい、だろ」
そのままの調子で続けて言い放った。
「は、ァ!?」
ひときわ大きく男子生徒たちが叫んだので、通りがかった他の生徒たちが何事かと一斉に注視した。壇の思考も停止した。ただし、それは男子生徒たちの声が大きかった所為では無い。
「か、わ……?」
「え、壇だろ?壇燈治?
かわいいよ、妙に過保護だし、妙に真面目だし、どっか抜けてるし」
思考を停止したままの壇の耳を、七代の楽しげな声が通過していく。
「だからちょっと、俺はお前らの言うコワイっての、悪いけど全然
ピンと来ないんだよな。
お前らもよっくアイツの事、もう一回見てみ?
かわいいから」
あいつは、一体、何を、言っているのだ、ろう。
壇の中にわだかまっていた黒い感情も、お陰ですっかり飛んでしまった。
「お、おま…………、お前こそ、マジでそれ、壇の話?
壇燈治だぞ?わかってんの?七代」
「おお、判ってるよ?お前らこそ間違いじゃねえの?」
楽しげなまま、七代が続けた。
「……………………まあ、別に、
お前らも壇のトモダチになってみ?とは言わないけど。
壇がかわいいって事を布教しても別に面白くないしな、
俺が知ってりゃ、まあいいっしょ。
あとは壇自身に任せるよ」
あまりの食い違いに混乱した男子生徒たちが逃げるように去っていったのはそれからすぐの事。
それからとりあえず一旦手洗いに行き、壇は改めて下足ホールに来た。
そして、力一杯素知らぬ顔を装って、下駄箱に凭れかかるようにして携帯電話の画面を眺めている七代に声を掛ける。
「…………よ、ォ、七代、
もう用事ってやつは終わったのか?」
携帯電話を畳みながら七代は、視線を壇の方へ向けた。
「用自体は結構前にな」
そう応える七代の顔に特別な表情は窺えない。自然に振る舞えているのだろうかと己の所作や声音を気にしながら、壇はぎごちない笑みを浮かべた。
「何だったんだ?用ってのは?」
「ああ……借りてた図書室の本を返すのと、新しく本を借りるのと。
借りたい本ってのはもう決まってたから……
ちょっと昼に行けなかったから放課後にな」
「はあ、そうかよ」
七代千馗は本を読むのが大層好きらしく、転入してきてから既に相当な数を借りているようだ。それを終えて下足ホールに来たところ、同じ組の男子生徒たちに捕まってしまったという事なのだろうか。
「なんか疲れた。帰ろうか壇」
「……おう」
ようやく揃って、校舎を出た。
並んで歩く道すがら。夕焼けた朱色の空気を浴びた七代が、少し振り返って微笑する。
「なんか軽く食ってく?
なんか待たせたし、奢るけど。
俺は晩飯決まってるから、ガッツリは食えないけどな」
自分に向かって微笑んでいる。その七代の顔を見詰めながら、壇は眼を細めた。
ああ、この男は。
風評も何も一切を気にする事無く、臆しもせず。確固たる己を芯に抱いている。
それが、七代千馗。それが、己の傍らに在る男。
だからこそ、己は。
「…………そうだな、
折角奢ってくれるってんなら、行くか。
ドッグタグだろ?」
「判ってるねえ」