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万有斥力のせいではないので

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万有斥力のせいではないので



微かな違和感を感じて、足を止めた。

「帝人くん?」

数歩行きすぎてしまった園原杏里は立ち止まり、不思議そうに彼の名前を呼ぶ。

「あ、ごめんね。園原さん」

一瞬傍らの存在を忘れていたことを謝ると、杏里は気にしないでと言って頭を横に振った。

「どうしたの?」

「この自販機、なんか変じゃない?」

形が歪んだり、故障しているわけではない。しかし、なぜか感じる普通ではない感じ。それは真正面に立つと解明された。本来なら道に沿って置かれているはずの自動販売機は、本来の場所からずれた位置にある。

まるで、誰かが動かそうとして途中でやめたかのように。

「向きが変だね」

「うん、これって、たぶん……」

池袋と自販機と言えば、自動的に連想されるあの人を脳裏に浮かべる。

「朝は普通だったよね」

朝ここを通ったときは、何もおかしな点はなかった。ということは、昼間この場所をあの人が通ったということ。そして、自販機を動かそうとしてやめてしまうような、何かがあったということ。何があったんだろうとぼんやりと考え込んでいた帝人は、申し訳なさそうな声で現実に引き戻された。

「ごめんなさい。私、朝はちゃんと見てなかったから…」

「あ、そっか!そうだよね!こっちこそ、ごめんね。いきなり変なこと言って…」

「ううん」

「じゃあ、行こうか」

「うん」

一瞬近づいてきた非日常に未練を残しつつも、歩きだす。

非日常の具現である彼が、こんなにも近いところに生きている。その実感をしみじみと噛みしめた帝人だったが、杏里と他愛ない会話を交わすうちに、すっかりそのなんでもない出来事は記憶の隅に追いやられた。




騒がしい若い男の声を聞いて、静雄は振り返った。女をナンパするその軽薄な調子が、この雑沓の中なぜ引っかかったのかはわからない。だが、振り返ってすぐに失望を覚えた。

違う。

60階通りでナンパする来良生は一種の名物と化していたが、最近はとんと見ない。その時ナンパしていた男もその少年ではなく、つまりその少年がいつも引き連れている中学生のごとき風貌の男子高校生もそこにはいなかった。

人違いに気付いた瞬間、すぐに踵を返して上司の背を追う。早足で進む中、ふと疑問が浮上した。

人違いならば、誰を探していたのか。疑問が連れてくるのは、好奇心に溢れた純朴な黒い瞳。接点もほとんどない人間の面影。

いや、一度だけ。

一度だけ、言葉を交わした。とはいえ、挨拶程度のものだったが。日常を体現したような見かけとは裏腹に、怯えもなく見上げてきた目が印象的だった。

だからか。

めずらしい普通の出会いに、心惹かれるものがあったのだろう。

今度会ったら、世間話でもできればいい。

届くかもしれない日常の切れ端を想い浮かべ、静雄は無意識に笑みを浮かべていた。




いつものよう怪我をして上司に説得され、新羅の家を訪ねると、もう一人の友人は不在だった。

「今、セルティはいないよ。帝人君を送って行ったんだ。君も前会っただろう。来良の後輩だよ。帝人くんには悪いけど、あの顔じゃこんな時間に一人で外に出すと補導されかねないからね!」

「竜ヶ崎…、いや、竜ヶ峰だったか?」

「そう、竜ヶ峰帝人くん。君もいい加減人の名前くらい覚えようよ、あんな印象的な名前なんだからさ」

「うるせえ」

説教がましい旧友に悪態をつきながら、治療を受け、結局セルティには会わずに帰宅した。

一回目は、ただそれだけのことだった。

そして、一か月が経ち、平和島静雄は鬱屈を募らせていた。その原因は、ほとんど会ったことのない後輩、竜ヶ峰帝人にあった。いや、彼は何もしていない。会っていないのだから、そもそもする機会などない。だが、会っていないこと、それ自体が本人の預かり知らぬうちに静雄を不機嫌にしていた。

なぜ、こうもタイミングが悪いのか。ただ会って、少し世間話でもしてみたいというだけだ。だが、連絡先など知るはずもない二人が会う確率はほとんどない。それだけならば、諦めもついた。

しかし、接点はあるのだ。池袋に暮らしていて、ワゴン組、首なしライダー、サイモン、と共通の知人は思っていたより多かったようだ。そのせいで、話だけならばよく聞く。

昨日偶然通りがかったワゴン組は、竜ヶ峰帝人とカラオケに行ってきたとはしゃいでいた。あいつは歌がプロ並みにうまいらしい。露西亜寿司では、帝人が美味しいと言ってくれたという新作メニューを勧められた。実際、割といけた。セルティはよくメールをしているようで、意外に池袋の情報に詳しい帝人から聞いたことを話題に出してくる。

ここまで行動範囲も人間関係も重なっているのに、なぜ会えないのか。

偶然の出会いに頼っているのが悪いのか。しかし、一度会っただけの高校生を呼び出すのも、そんなことを知人に頼むのも気が引ける。

やはり、日常はそう簡単には静雄の手の届くところまで近づいてこないようだ。

そう結論付けた静雄は、行き場のない苛立ちを押さえつけ、嘆息した。

そして、苛立ちを諦念に変えようとした丁度その時、なんの運命の悪戯か、すっかり目が探すことを習慣づけてしまった特徴を、見つけた。

黒い短髪。低い身長。来良の青いブレザー。

雑沓の中に消えていこうとするその姿に声をかけようとして。

できなかった。

喉元で引っかかっている名前は音にはならずに押し戻されて消えていく。

声を出せば届く距離にいるのに。

手を伸ばせば掴めるかもしれないのに。

土壇場で臆病さが顔を出す。

だって、俺なんかが関わっていい奴じゃないだろう。

平穏な生活が似合うあいつは、ずっと俺を弾き出してきた、普通の日常の側に生きる人間なんだ。

見えない力が足を留めている間に、あれほど心を騒がせていた背中が人波の中に消えていく。

それはきっと、これまでずっと彼と決して出会わせなかったものと同じ力だ。

近くに生きていても、接点があっても、どうにもならない力だ。

わかっているのに、往生際の悪い目が、見えなくなった面影をいつまでも追っていた。




『どうして声をかけなかったんだ?』

休憩時間に友人のデュランハンを見つけて声をかけると、珍しく脈絡のない言葉を突き付けられた。鈍い反応を返す静雄を見て、言葉足らずを悟ったのか、すばやく新たな文字が打ちこまれる。

『昨日 帝人に』

「ああ、見てたのか」

ばつが悪そうな顔で静雄は、頭を掻く。

『会いたかったんだろう?』

「つってもなぁ。あいつと俺は生きる世界が違うからな。話してみてえとは思ったが、結局関わらない方がいいんだよ」

思っていたより気弱な声が出たことに静雄自身も驚いた。だが、セルティはより困惑したようだ。沈黙が痛い。

『帝人に会いたくなくなったわけじゃないんだな?』

「そういうわけじゃねえ。ただもういいかと思っただけだ。あんなにすれ違ったのも縁がないからだろ。俺なんかとは縁がない方が、あいつもうまく生きていけるだろうし」

『後半はわからないが、帝人はもういいなんて思っていないぞ』

「は?」