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その名を呼べば

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その声で、呼んで。

直井は悩んでいた。
本来であるならば、神(自称)である直井に悩みなど存在しない。
だが、悩んでいた。
色々あったが、現在、直井と音無は恋人同士である。
とは言っても、SSSのメンバーには秘密であるが。
秘密である事を悩んでいるのではない。
大体、秘密にして欲しいと言い出したのは直井の方であったからだ。
では、何を悩んでいるのかというと。
「どうしたんだ、直井?」
「…」
屋上で本を読んでいる直井の前に音無が缶コーヒーを持って現れた。
直井は胸が跳ね上がるのと同時に少し不満を覚える。
「直井、眉間にしわが寄っているぞ」
「え、あ…」
直井は思わず、眉間に触れる。
音無はくすりと笑った。
「笑わないで下さい…ゆ…え、あ…」
直井は口を小さく開いたり、閉じたりを繰り返す。
「ん?」
「…音無さん…」
これが理由だった。
直井は音無の事を”結弦さん”と呼びたかった。
それと、音無に自分の事を”文人”と呼んで欲しかった。
元々、直井は自分の名前をあまり呼ばれた事が無い。
なぜなら、直井は生前、兄の身代わりで生きていたのだ。
その時も、文人ではなく健人と呼ばれていた。
直井は悲しかった。
だから、決めていた。
もし大切な人が出来たら、自分の事を文人と呼んでもらう事に。
だが、それも叶わず、生が終わった。
しかし、死に近いこの世界で、大切な存在を見つけた。
その存在、音無に、名前で呼んで欲しかった。
けれど、何となく言い辛かった。
どうしてだろう?
それとなく言えばいい。
”名前で呼んでください”と。
だか、そう思うたびに急速に顔に熱が灯り、口が開かなくなってしまう。
そして、音無の事を”結弦さん”と呼ぶ事も出来なかった。
呼んでもいいとは音無に言われていない。
直井は音無以外の人間には憮然としているが、音無の前では受身になってしまう。
言われないと動けなかった。
「うーん」
突然、音無が唸る。
「どうしたんですか?」
「いやさ、またお前に冷たい態度を取ったんじゃないかなと思って」
「?」
直井は首を傾げる。
音無はSSSのメンバーがいる前で、直井が話しかけても、
恋人同士になる前のような冷たい態度を取る事はなかった。
寧ろ、恋人とばれてしまうんではないかと思えるほど、近づいてくれた。
直井はそれが嬉しかった。
「何だか、最近、俺の顔を見ると、ちょっと怒っている感じがするから」
「あ、いえ、怒っていません」
戸惑っているだけです。
と簡単に言えたら、苦労はしないだろうなと直井は心の中でため息を吐いた。
「考えたんだけど、俺、直井を恋人にする前、本当に冷たかったなと思って」
「え、僕の首根っこを掴んだり」
「うっ」
「頭を叩いたり」
「うっ」
「僕が見つめても冷たい目で見て、答えてくれなかったり」
「うっ」
「後は…」
「ごめんなさい」
音無はぺこりと頭を下げる。
これ以上、苛めては可哀想だろう。
直井は下げている音無の頭を撫ぜた。
「冗談ですよ、気にしていませんから」
「本当か?」
「はい」
「そうか…」
音無は直井に缶コーヒーを渡す。
直井は礼を言って、開けて、飲む。
「そういえば、音無さんの分は?」
「それ」
音無は直井が持っている缶コーヒーを指差す。
「え、僕、飲んじゃいましたけど…」
「うん、くれ」
「え、あ、そ、その…」
直井は顔を真っ赤に染める。
間接キスになってしまう。
音無とはもう何度もキスをしているが、それでも恥ずかしかった。
「嫌なら、こっちのを貰う」
「え、んっ!」
帽子を脱がされたと思ったと同時に唇に温かい感触。
ずるいなと思いながらも、直井は音無に身を任せる。
長いようで短い時間が過ぎた。
音無が離れていくのを直井は寂しいと思いつつ、優しい感情に包まれていた。
「ご馳走様」
音無は丁寧に手を合わせた。
「音無さん…どんどんいやらしくなっていません?」
「なってる。だって、直井がやらしいから」
「僕はそんなんじゃないです!」
「あはは」
音無が笑う。
それだけで、全てを許してしまう。
直井は甘いなと思いつつも、どこかで嬉しかった。
「直井、それ飲んだら、部屋に戻ろう。ここは寒い」
「はい」
直井はコーヒーを飲み干すと、音無と一緒に屋上を出た。
また、呼べなかったし、呼んでもらえなかったなと直井は少しだけため息を吐いた。

次の日の朝。
直井は廊下を歩いていた。
また屋上で本を読むつもりだった。
授業には出ない。
教師は催眠術で誤魔化していた。
消滅しない為、以前みたいにNPCに暴力を振るっても構わなかったが、
音無の事を思うとそれもやりにくかった。
「直井、おはよう」
「あ、ゆ…音無さん」
また、言ってもらえなかったし、言えなかったと直井はがっくりと肩を落とす。
「どうした?何か悩んでいるのか?」
「あ、いえ…何でもないです。音無さんはどうしたんですか?」
「直井と一緒にいたくて」
「…」
直井の顔の熱が急速に上がる。
「一緒に学食、行こう」
「…はい」
直井と音無は学食に向かった。
学食はNPCで混雑していた。
音無はNPCに直井がぶつからないよう誘導する。
少しだけ、どちらが先に食券を買うか譲り合う。
結局、音無が先に買う事になった。
「麻婆豆腐…ですか?」
直井は少しだけ胸がしくりと痛んだ。
「ああ、結構、いけるんだ。直井は食べないのか?」
「…僕は辛いものは苦手ですから」
嘘だった。
食べられない事も無い。
けれど、何度も、音無が天使と一緒に麻婆豆腐を食べている姿を見ているせいか、
辛いものが、否、学食の麻婆豆腐が嫌いになっていた。
「そうか、残念だな」
音無も無理に勧めるつもりが無いらしく、それ以上は何も言わなかった。
直井はオムライスセットの食券を買った。
食券を麻婆豆腐、オムライスセットに交換をした後、席を探す。
「今日は混んでいるな…」
音無は視線を右から左へと急がしそうに動かす。
「すみません、僕が席を取っていればよかったですね」
「いや、俺が少しでも、直井と一緒にいたかったから」
「あ、えっと、そ、その…少し待てば…」
「結弦」
そう言ったのは直井ではない。
小さな声だった。
混雑した学食の一角のテーブル席。
そこだけ切り取られた空間のように。
天使が。
立華奏が、そこにいた。
「奏」
音無が天使を呼ぶ。
直井の胸が痛んだ。
天使にはそうやって、下の名前で呼んでいるのに。
「席、空いていないの?」
「ああ」
「ここ、空いてる」
天使が自分がいるテーブル席を指差す。
「音無さん、待ちましょう」
「いや。このままじゃいつまで経っても、食べられなさそうだし」
「…っ…」
直井は嫌だった。
音無と天使が一緒にいる光景は見たくないのに。
どうして気づいてくれないのだろう。
結局、音無は奏の向かいの席に座る。
直井はしぶしぶ音無の隣に座った。
「また麻婆豆腐を食べているんだな」
天使はこくんと頷く。
天使の前には麻婆豆腐が置かれている。
音無と同じ。
直井だけが違っていた。
「俺も同じ。結構、ハマるよな」
「…」
天使がまたこくんと頷いた。
音無が頂きますと言って、麻婆豆腐を食べる。
途端、顔が真っ赤に染まった。
「からぁぁぁぁ!」
作品名:その名を呼べば 作家名:mil