独立前夜
頭が痛いのは、こいつのせいだ。イギリスは苛立ち紛れにそう思った。
テーブルを挟んで、アメリカがカップを揺すっていた。コーヒーの匂いが、もう冷めた紅茶の匂いを打ち消して届いた。
アメリカがコーヒーを好むようになってからずいぶん経つのに、イギリスはいまだこの匂いに慣れない。フランスがどんなに鼻先で同じ匂いをさせていても、こんなふうにはならないのに。
かすかな痛みが集中を散らしている。意識をしいて手元の書類に戻し、イギリスはかすかに響く鈍痛を、さっきから噛み潰していた。
「なぁ。イギリス」
珍しく焦れた様子も見せず、アメリカが呼ぶ。もう何度目だろう。イギリスはとうとう目を上げた。
「なんだ」
「さっきの話」
「さっき?」
「だから、もしも俺が君から――」
「その話なら、もう終わっただろ。それどころじゃないんだ」
見てわかるだろう、書類を指し示すとアメリカは諦めず続けた。
「それは明日でもいいだろ」
「お前の話こそ、明日でいいだろ」
アメリカの表情から、一瞬感情が抜け落ちて見えた。
木で鼻をくくる物言いに怒ったのか、それとも鼻白んだのか。見極めるには短い時間でイギリスは視線を逸らしてしまった。
「明日明日っていうけど、君は最近遊びに来ても持ってきた仕事に追われていて、いつだって話どころじゃないじゃないか」
誰のせいだ。腹の中でくすぶった八つ当たりの言葉を喉元で押し留める。飲み込んだ言葉の代わりに溜め息が零れた。見透かされたかもしれない、という疑念に目を瞑り、小さな子どもを諭すように呟く。
「……忙しいんだ」
「見ればわかるよ。なら、明日なら必ず時間を作ってくれるのかい?」
アメリカの口調は普段と変わらなかったが、なぁなぁにさせまいとする意思が強く伝わってくる。イギリスは苦い唾を飲み下した。
「――作るよ」
「イギリス」
「作るから。だから、今日は終わりにしてくれ」
頼むから。懇願を口に上らせるより先に目をきつく閉じる。痛みを耐えて無意識に握りしめていた拳が、冷えて感覚が乏しくなっていた。
衣擦れの音が近付く。目を開けると、アメリカがイギリスの手元から書類を取り上げた。
「返せよ」
「イギリスがぼーっとしていて、インクが滲みそうだったから避けたんだ。邪魔なんかしないよ」
アメリカは小さく首を竦め、ペン先の離れたところに書類を置きなおした。
手元に戻った書類に、もう一度目を落とす。潰れ気味の文字が滲み、うまく追えない。同じところを何度も読み直し、やっと意味が落ちてくる状態で、実際は仕事どころではなくなってきていた。目を休めたい。イギリスは切実にそう思った。けれど忙しいことを言い訳にした手前、アメリカがいる前で手を休めるわけにもいかない。
「それ。まだ終わらないの」
「……ずいぶん溜まってるからな」
「ふうん」
アメリカは気のない相槌を返して、手元のカップに口を付けた。
いつも堂々と構えて、ゆったりと振舞え。アメリカに教えたのは昔の自分だ。けれど今はアメリカがくつろいだ様子で、こちらを見つめていることが癇に障った。
いつまでここで粘るのだろう。話は明日と言ったのに、この仕事が終わるまで待っているつもりだろうか。
書類に意識を戻す。いくつも並ぶ試算の数値、細々とした注釈。専門用語の羅列された文面は、ますます頭痛をひどくする。手元を照らす明かりがいやに眩しく、瞼の奥を刺すようだった。
イギリスはしばらく耐えて書類に向かっていたが、とうとう耐えかねて両手で顔を覆った。どっと深い息が洩れた。
「イギリス?」
「待っていても、今日は付き合わないぞ」
「どうして」
「……どうしてもだ」
弱音は吐きたくない。けれど搾り出した声が弱っていては、弱音を吐いたも同然だ。俯いたまま歯噛みすると、アメリカが同じように息を吐いたのが聞こえた。
「わかった。話は明日以降にする。その代わり、君もその仕事、明日にしなよ」
「なんでそうなる」
「さっきから全然捗ってない。その仏頂面、またいつもの頭痛かい? なら早く休みなよ」
見透かされたことの居心地悪さより、アメリカの口調がごく自然なものであったことにイギリスはほっとした。話をするのが嫌で逃げたと思われでもしたら、それこそ後々面倒になる。少なくともイギリス自身が罪悪感を覚える。
「……あぁ。そうする」
息を吐いてペンを置く。書類をまとめて袋に戻し、テーブルの端にそろえると立ち上がった。手元を照らしていた明かりが、壁に大きな影を投げた。
飲みさしたティーカップを手に、テーブルを回り込む。アメリカの横を通り過ぎようとすると、無言でアメリカの手が伸びた。
イギリスが驚いて足を止めた刹那、アメリカはなにか言う代わりにソーサーごとカップを奪った。繊細なカップが揺れるのに気を取られ、イギリスは視線を誘導されるようにアメリカと目を合わせた。
「こんなときにまで片付けを忘れないのが、君らしいね」
器用に片方だけ眉を持ち上げ、アメリカはからかうように言った。
「でも、あまりひどくならないうちに休んだ方がいいんじゃない? 片付けは俺がやっておくよ」
「悪い」
そのときどうして、ありがとう、と返さなかったのかとイギリスは後で思った。けれどそのときは、それに気付く余裕は残っていなかった。
部屋はいつものところだよ、イギリスの背を追いかけるようにアメリカの声が届いた。