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かつみあおい
かつみあおい
novelistID. 2384
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バイルシュミットの穴

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 朝は目ざましもなく赤い目を開けて、行儀悪く裸足でカーペットの上を歩き、気温があたたかければ水混じりのシャワーを浴びて、パンとチーズかもしくはヨーグルトの朝食を摘む。
寝巻であるタンクトップと下着を換えて、兵役時代に使っていたらしいドッグタグだけはそのままに、パン屑をベランダに撒いて、小鳥が啄ばむのを眺めながら歯を磨き、ラジオのニュースから流れるサッカーリーグの結果で、鼻歌が長調か短調かに変わる。
 長い柄のある剃刀で、やたら石鹸を泡立ててほとんど目立たないヒゲを剃る一方、銀の髪の寝癖は比較的いい加減に整える。

 簡単に外れる鍵をかけて、口笛を吹きながらポケットに手を突っ込んで仕事場か学校か、どこかしらに向かう彼を、誰かしらが追っていく。
追跡者の顔立ちは数種類あり時々入れ替わる。彼らが入れ換わる理由は、単なる交代なのか、それとも別の理由で替わっていくか私は知らない。2〜3人、顔を知っている同僚もいたが、いつの間に職場から話題にされなくなった後で、上司として顔を出すものもあれば、そのまま音沙汰がないのもいた。
あの外見だ。尾行するのは楽だろう。変化に富む仕事でとても羨ましい。

 小鳥はまだベランダを闊歩していた。エサ不足でアリほどの粒でも彼らにとってはごちそうなのだろう。

 花柄の壁紙で覆われてはいるものの、隙間だらけの壁はもろく、大戦の時の銃撃の跡がまだ残っている。そこから音や視覚を拾うのは容易い。音楽は聞こえない。せいぜい鼻歌程度。それもすぐせき込んでしまって、あまり耳触りのよいものでもなかった。

 ドアの中には誰も、私が配置した道具ごしへの視線以外では、手紙や電話の声さえも入らない、それはそれは楽しい一人暮らしだ。

 私はギルベルト・バイルシュミット青年がいつもと同じ一日を始めたことを確認すると、煤けた毛布をまとって仮眠を始める。
こうして私の一日が終わるのだ。そろそろこちらもシャワーが浴びたい。










バイルシュミットの穴






 コンパス、銃剣、腕。
 付けもしないエンブレムは、輪郭さえもいびつだった。
 それは、この有刺鉄線や壁前の緩衝領域で囲まれた真ん中が少々欠けている国土や、平穏の維持をあくまで名目とした組織の存在理由と似ていたかもしれない。
 養成学校を卒業した私は、至極無難な職場に付けた。そしてこれは、単独行動での初仕事に当たる。

 対象者は、ギルベルト・バイルシュミットという名前だと教えてもらった。それ以上は不明。
 名前と外見の写真、そして住所にいくつも押された捺印捺印しかない書類は、インク1ccも惜しいかのようにほとんどが白かった。
 仕事初日と比べて書類の埋まり具合はどうだろう。あまり変わっていない気がする。

 隣の部屋を陣どり、必要な機器の配線を行い、モニター越しに彼を見る。ノイズが幾分横線として入るが、画像は卒がなく、ベッドの上で古ぼけたテディベアを抱えてごろごろしているバイルシュミット氏を映していた。
氏と言うと、対象者らしいが、そんないかつい言い方よりバイルシュミット青年の方がその態度としては好ましいと私個人は思っていた。

 靴を磨くのは一週間に一度、洗濯をするのは五日に一度、掃除をするのは三日に一度、パンケーキを焼くのは幸運なる一カ月に一度。それらもあまり特徴的ではないリズムだ。
年齢は恐らく20過ぎというところか、色素のほとんどない髪と目や、性格にやや幼稚なところがある以外は、至って普通の一人暮らしの青年だ。
 好きなものは、たまに手に入る血が詰まったヴルストと、ゆで上がったばかりのジャガイモ、そしてビール。テレビは愛すべきキャラクター、ザンドマンのアニメーション番組を欠かさず見ていて、でも、モスクワからのニュースもチェックはしている。
 たまに捨て犬を拾って、だが、捨てられるような犬は大概ひどい怪我か病気をしているか、捨てられたからひどい怪我や病気になったのか、それとも最初から元気な犬には興味がないのか、甲斐甲斐しく手当てをしても、簡単に薬や命が手に入るわけでもなく、どこかに埋めに行っているのが何度かあった。

 私は時々、猶予を与えられて帰る自宅と彼の部屋を比較した。持っているものは大して変わりはない。部屋の広さも同じくらい。だけど、彼の生活は豊かに見えた。西の物資が入っているようにも見えないのに、サッカーチームの好みも似ているのに、この違いはどこから来るのだろう。
 一番の違いはここにあるのだろうと判断して、日記を付けることを始めて見た。仕事は記せないので他愛のないことだ。天気はどうだったとか、そういう話題だ。あまり面白くはなかったので三日で止めた。バイルシュミット青年は毎晩、私が見た通りの出来ごとを日記に書いて何が楽しいのだろうか。

 一か月が過ぎたが、その部屋には誰も入って来ることはなかった。
 他人の存在どころか、ここにいないときのバイルシュミット青年本人も影がない。彼は仕事や課題を部屋に持ち込むことをしないし、恋愛の話もしない。家族がどこにいるかもわからない。
 不在時にポストを見たが、それは遥か昔に錆ついてしまっていて、手紙が来ているであろう痕跡はなかった。告書に追加すべき情報のために、屋内への侵入を決行することとした。
 規則正しく日没で帰ってくるバイルシュミット青年の不在を狙うのは易しい。合い鍵もなく針金でも開けられるドアはもっと優しい。
 本棚の中身を一冊一冊開けてみて、簡単な主義の本や、ロシア語の辞典などの赤鉛筆での線も意味をなさず、レコードも全て国内版。日記は、独り言と大して変わらない内容だった。
 私はため息をついて、ラジオが点けっぱなしの部屋を後にした。
 帰りにその辺をうろついていた犬を拾ってみた。一週間で世話ができずに然るべき施設に引き取ってもらった。

 三か月が過ぎた。下の階の老夫婦が彼の部屋のドアベルを鳴らした。ジャムを差し入れられる。会話の内容から察するにどうやら先日、台所の配管を修理してやったらしい。
 半年が過ぎた。上の階の少女は、テディベアときりんのぬいぐるみを交換して行った。いくつかの玩具や絵本を共有しているようだ。
 一年が過ぎた。雪が降ったとき、アパートの前でシャベルを振って、道を作っていた。冷やかしに来たボーイスカウトたちと雪合戦に興じ、礼代わりのタバコを上手そうに燻らせて、自作の大きな雪だるまをニヨニヨ見つめている。

 休日ではなかった。
夜明けを少し過ぎた頃に目ざましもなく起きて、行儀悪く裸足でカーペットの上を歩き、冷え切っていたので毛布をかぶりながら、パンとレーズンで朝食を済ませたバイルシュミット青年は、黒いタンクトップと青い下着を換えて、ドッグタグを揺らしながら、余ったパン屑をベランダに散らし、二羽の小鳥が啄ばむのを窓に映しながら歯を二分間磨き、ラジオからは彼のひいきのチームが勝って、鼻歌は上機嫌なフレーズをエンドレスで繰り返している。
 古めかしい剃刀で、掌に載るほどに石鹸を泡立てて生えていないようにしか見えないヒゲを剃って、寝癖は手櫛で整えた。