バイルシュミットの穴
前髪を上げかけて、やっぱりおろした。手を鏡に当てる。そのまま、窓の外を彼は向いた。
そして発せられるは、ほんの小さな言葉だった。
「あいしてるぜ、ヴェスト」
西(ヴェスト)――それは、壁の向こう側。
袂を分かった、対立すべき敵国であり、同世代の若者の多くが憧れる地。
ロックのレコードも、退廃的な本も、伝統的宗教さえも排除された部屋はしかし、持ち主の心までは偽れなかった。モニターには、恍惚に近い笑みがあり、それは今までの監視のどの瞬間よりもとろけ切った柔らかみのあるため息があった。
黒だ。
反逆に相応しい証拠だ。録音だって取ってある。
しかし、と考える。
彼はまだ、脱出なり活動なりを行おうとしているわけではない。この一年以上を廻った生活だけとれば、実に落ち着いた、好感のもてる青年だ。
バイルシュミット青年は、上着を羽織って外へ出ていく。いつものように追跡係が追っていく、
言えばいい。もうすぐ交代要員がやってくる。報告すれば、この単調な生活から逃れられる。これだけの規模で監視している対象者だ。昇進も夢ではない。
だが、逆にこれだけの規模で監視しているほど重要な対象者であるなら、処罰も重い。矯正教育で済めばまだいい方だろう。最悪、秘密裏に―――
待ち望んではいても、それは来て欲しくなかった結果だった。
どうすれば。
どうすれば。
「お前、クビ」
口が塞がれた。格闘術の心得はあるが、後ろからの締め付けを振りほどけない。あっという間に床に押し付けられて、さかさまの顔が見下ろしてきた。見なれた赤い目と銀色の髪が額の先に落ちて来る。
ギルベルト・バイルシュミット。
名前と、この部屋での生活しか知らない青年。だが、ここでの生活ならすべてを小さな穴からこちらが知っている青年。
まさかここまで気配なく行動できる体術の達人とは聞いていない。冷静になれ、冷静になれ。しかし、こちらは一年以上実践からかけ離れていた身。
これほどの実力者なら、一年以上かけて短く振られていた尻尾をつかんだ甲斐があっても、抵抗は迷いと共に押さえつけられて。
「向いてねーよ、この仕事。とっとと荷物まとめて出てけオラァ」
沈められた。
絶対的に正しいコンパスも、誰をも排除できる銃剣も、何事にも立ち向かえる強い拳も、ただ掲げているだけでは、力にもなれない。
湿った感触に目が覚めた。
手への生温かさはあれど、目の前はしかしまだ暗くて、恐怖しか感じられる手を無我夢中で振ったら、きゃんきゃん犬の吠える声がした。まさか、軍用犬に任務の失敗を嗅ぎつけられたか。
暗さは突然消えた。犬が紙片を咥えて逃げていく。
「ちょっと、待て……」
「伏せ! ブラッキー!」
雄々しい指示に犬が従う。間違いなくこの掛け声は軍人だ。それも命令しなれている将校。その証拠に、彼の発音はやたらきっぱりとしていて洗練が感じられる。
角から、二匹の犬を連れた男が現れた。先ほどの声の主に違いない。その威圧感のある体格が物語っている。アーリア人らしい金髪と青い目を持つ男は、犬の前に立って、紙片を取った。手袋をはめた指を口元にもっていき読んでいく。
目をあげてきた。こちらと合う。
「……またか」
「は?」
階級はこちらが下の可能性が高いが、思わず聞き返してしまった。
男は紙面の中身をこちらに向ける。
何人もの自分でも知っている政治家や将校のサインが浮き彫りになっていた。その中には西側の要人まで入ってある。
その書類は、私の任命書と同じように、題字が活字で簡潔に綴られていた。
通行許可証
浮かぶのは、ニヨニヨ意地が悪そうな赤い目が細くなる笑みばかり。
「まさかあの男、偽造までしてたなんて」
「いや、その許可証は本物だ。俺が保証する。偽物だったらこの子らは匂いに反応しない」
麻薬ならともかく、偽造書類までわかるなんて、どれほど訓練された軍用犬だろうか。それならこの主はどういう存在だろうか。
見たところ歳は自分やバイルシュミット青年より少し上のようだ。落着きと風格がある。今日は演習の合い間の休日だろうか。服も上等ではあるし、髪もきちんとセットされている。相当な高官でないとこんな格好はできない。
「来い。どうせ兄さんのところから来たなら失業中だろう。仕事をやる。大方、『出てけ』とでも言われたのだろう」
「兄さん?」
「ギルベルト・バイルシュミットと言えばわかるか」
「あ、ああ」
顔立ちは似ているものの、雰囲気はあまり似ていない兄弟だ。バイルシュミット青年は、元軍人らしい最後の姿を除けば、むしろ愛想はよく、ケラケラ笑うことが多かったが、この弟は押し黙ったまま睨むかのようにこちらを見下ろして来る。
怒らせたのだろうか、それともバイルシュミットが彼と兄弟喧嘩をしているのだろうか。
だが、数秒間の緊張感が終わった瞬間、彼はため息をついた。呆れと安堵が混じったようなため息だ。それはなるほど、あのバイルシュミット青年が洩らした秘密の囁きの直後についたため息と似ていなくもなかった。
やはり彼らは兄弟なのだろう。もしかしたら複雑な事情があるのかもしれないが、れっきとした兄弟なのだ。
「あの人は、自分の気に入った人間ばかりこちらに寄こす。それでは手元には、弱った輩しか残らないというのに」
拾われた犬、家には入れず外へ飛び立つ小鳥。情緒ある外での人間関係、一人での生活。
そこでようやく景色が目に入った。道路を行く車は、どれもが磨かれていた。公園のベンチには、読んだら叱られてしまうほどに躍動感のあるひわいなラクガキがされている。ウォークマンを付けた少女が、ローラースケートで通り過ぎる。
まさか。
まさかここは。
「紹介が遅れた」
その薄いが朗々さもある声が、場所で、存在で、夢で、方向で、主義で、空想で、現在で、未来でもあることを告げる。
「こちらが西だ」
つやつやした犬たちの毛並みからは、職場の女性でも使っていないようなシャンプーの香りがした。それは、男が告げたことが事実であることの証拠でもあった。
一週間に一度オーガニックの靴墨を使って靴を磨く、五日に一度洗濯をしながらぼんやり乾燥機ドラムが回るのを見る、三日に一度家じゅうにはたきをかけて書庫とデスクトップを整理する。
上司からしあわせになるメイプルシロップを大量に兄が輸入してしまったと嘆かれたため、一瓶買ってパンケーキを焼いた。
良い匂いに思わずため息をついた後、今なら犬が飼えるかもしれないと思って、然るべき施設の電話番号を調べることにした。
20年ほど続く同じような一日。
しかし、それは実りの多い物だと、今なら日記に書ける気がする。
Fin
作品名:バイルシュミットの穴 作家名:かつみあおい