至極軽い狂気
帝人は観念したように、力無く寝台にその体を預けた。
それを見て、臨也は至極満足そうに笑う。
「良い子ね。実に正しい判断だよ。明日歩けなくなったら困るのは君なんだからね」
「臨也さん………」
捨てられた子犬のような、最早泣き出す寸前の帝人を目にしても、臨也は全く容赦がなかった。
「大人しく、しててね? 貴方が静かにしてくれれば、直ぐに終わるんだから」
そして臨也はそう言うやいなや、早速作業に取り掛かった。
爪切りの、下準備に。
「うぅ……」
今まで臨也に掴まれていた足を濡れたタオルで丁寧に拭かれながら、もう幾度も思ったことを帝人は心の中で呟いた。
どうして、こんなことになったのだろうと。
きっかけなら分かっている。
しかし、原因が分からない。
否、爪を切っていなかった自分が悪いのだとは、十分に分かっているのだけれど。
だからといって、これはあんまりではないか。
帝人は、ほんの少し前の自分の迂闊さを、深く悔やんだ。
臨也と所謂恋人同士という間柄になってから、顔を合わせるのは専ら池袋だった。学生の帝人と自由業の臨也では、平日の方が都合が良かったし、そこから場所を移すのも手間だったので。
臨也は池袋に精通していた。美味しい店も、綺麗な景色も沢山知っていた。ただ問題があるとすれば、池袋には臨也の天敵とも言える人物がいるということだろうか。
臨也の天敵――平和島静雄は、臨也に言わせると腹が立つくらいに勘が良く、警察犬並に鼻が利くらしい。だから、帝人とのデート中に静雄が現れることは、ある意味で必然だったのだろう。
臨也一人ならば逃げることも戦うことも可能だっただろうが、今日に限っては帝人が一緒だった。臨也にとっては守るべき相手で、帝人本人にしてみればとんだお荷物という認識だったが。
それでも、帝人は戦闘に不慣れながらも頑張った。なるべく被害を被らないようにと、出来るだけ安全だと思われる場所に避難していた。それでもやはり、完璧だとは言えないのが静雄の理不尽な暴力だ。
ヒラヒラと逃げ回る臨也に痺れを切らせた静雄は、武器を標識からコンビニのゴミ箱に変え、大きく振りかぶり……投げた。静雄は臨也しか見ていなかったから後ろにいた帝人に気付くことが出来なかったし、臨也も静雄の攻撃をかわす内に帝人が何処に避難したかを忘れてしまっていた。
それでも帝人の被害はゴミ箱から咄嗟に逃げた時に躓いたことによる捻挫だけですんだ。ただ、それはもう見事にグキッといってしまったが。
手当ては必要だが、わざわざ新羅を訪ねるほどの怪我でもない。そう判断した臨也は、静雄のことなど意識の外に押し出し、わざわざ帝人を新宿にある事務所まで連れて行った。
患部を心臓より高く上げるのは基本中の基本だとか言って、臨也は始終帝人をお姫様抱っこで運んだ。タクシーの中でもだ。
いつもは考えの読めない人だが、ここまで大切に扱われて嫌な気はしないものだ。しかし今の状況を思えば、無理にでも一人で新羅を訪ねれば良かったと思う。近くの薬局や病院に行っても良かっただろう。
まさか、手当てする為に露にした足を見て、臨也が反応を示すとは思わなかったから。
爪を切るように促すならまだしも、爪を切ろうと申し出て来るだなんて。
「……………」
足を綺麗に拭き終わった後、臨也は不気味に刃を煌めかせ、それから慎重に、小気味良く、乾いた音を響かせて爪が切られていった。
その真剣な顔といったら、今まで見たことがないくらいだ。
何だ、何だこれは。一体何が起こっているんだ。
そこまで真剣になることじゃないでしょう、たかが爪切りですよ!?
臨也の纏う異常な空気にアテられて、帝人の羞恥心は倍増した。今なら恥ずかしさで憤死出来る勢いだ。
そんな思考でグルグルしている内に、片足……先程捻挫した方の足の爪切りは終了したらしい。
再び仕上げとばかりに足を拭かれた後、普段は枕として臨也が使用している長い物体に足を乗せられる。
血がなるべく行かないように、との配慮から来ていることは十二分に分かっているが、やはり恥ずかしものは恥ずかしかった。
せめて捻挫していなければ、こんな大切で事は行われなかったのかも知れない。
自分は優雅にソファにでも腰掛け、投げ出した足の爪を臨也が膝を付きながら切っているとか。
「…………」
それもそれで結構痛々しい場面だな、と帝人は思った。
つい先程自分が臨也に抱き抱えられて此処に来た時の、波江の反応を思い出す。
間違いなく、一瞬空気が凍り付いていた。
これで自分が女の子だったらまだマシだっただろし、子供でも辛うじて許容範囲内だっただろうが、生憎と帝人は声変わりもすっかり終えた男子高校生だった。
「臨也さん、やっぱりこんなのは普通に考えて可笑しい……っ痛!!」
「……帝人君、大人しくしててって言ったよね、俺?」
帝人があまりの恥ずかしさに耐えきれず体を起こした反動で、どうやら深爪になってしまったらしい。
じわじわと、地味に痛さが広がって行く。
踏んだり蹴ったりとはこのことだと、半分以上自分の所為であるにも拘わらず、帝人はまた泣きたくなった。
「ああ、血が出ちゃってるじゃないか……消毒するからさから、今度は『大人しく』していてよね」
素直に頷こうとした帝人は、目の前の光景に絶句した。
何と、臨也が自分の足に口を寄せている。
「ちょ、ちょ……っ」
予想外の展開に、脳が追い付いていかない。
ただ、辛うじて残っていた平常心が、この室には今薬箱が在る筈だと激しく訴えていた。
視界が、歪む。
しかしその涙は、痛みから来るものでは決してない。
「ちょっと待って――!!」
そんな帝人の悲痛かつ悲壮な叫び声は、広く広くマンションに響き渡った。
尤もこのマンションは防犯も防音も折り紙付きだったし、すぐ隣の部屋にいる筈の波江は二人が事務所に来た時点で休憩を外で取ることに決めたので、帝人を窮地から救う人間はいなかったのだけれど。