現実と妄想の距離はどのくらい
昼休みの、静かだけどゆるみきった空気の中、コンクリートに寝転んでいた臨也がふいに言った。
「ドタチンって、セックスしたことある?」
唐突すぎる質問に、思わず読んでいた本から視線を外すと、臨也が体の向きを変え、門田に向かって笑った。臨也の笑顔は、無邪気に見えてもそうじゃないことを知っている門田は、眉を軽く顰めただけで本に視線を戻した。だけど臨也はしつこく訊ねてくる。
「ねえ、ある?」
「くだらない」
限りなく素っ気ない声で答えた。だけどそんなことを気にする臨也ではない。
「えー、くだらなくなんてないじゃん。この年頃の男子はみんな興味あることでしょ?ねえねえ、どうなの、ドタチン。俺の予想としてはドタチンはもう済んでると思ったんだけど。ドタチンは女子のブラウス見て挙動不審になってるクラスの奴らとは違うからさあ。ドタチンの相手ってどんな子かなー。年上って気もするけど、大人しい年下っていうのもいけそうだな。ドタチン、ストライクゾーン広そうだから。ね、当たってるだろ?」
べらべらと淀みなく紡ぎだされる声に、やはり図書館に行くべきだったな、と今更ながらに後悔する。だけど図書館に行けば行ったで、そこでも臨也と鉢合わせることが多い。ふたりが求める場所はたいてい同じだった。
「勝手に想像してろ」
自分に被害が出ないのならば、いくら妄想してもらっても構わない。それは本当の自分自身ではないから、なんということもない。もちろん現実の自分とその妄想がかけ離れているからといって、異議を唱えるつもりもない。わかって欲しいと思う相手がわかってくれればそれでいいのだ。
「俺の想像じゃなくってさ、ドタチンの真実が知りたいんだよ。ねえ、教えてよ」
「そんなこと知ってなんになるって言うんだ」
人の経験の有無など、聞いたところでまったく役に立たない。どうでもいい情報だ。そして臨也はそういうどうでもいい情報も、おろそかにはしない。
最近、どうやら臨也は門田の知らない世界に係りがあることがわかってきた。そこでは情報がものを言うらしく、臨也は「どうしてそんなことまで?」と背筋が寒くなるようなことまで知っていることがあった。
「俺の経験なんか、買う奴はいないだろ」
やや皮肉をこめて言ったことだったのに、臨也はそれを軽く吹き飛ばすような笑い声を立てた。
「やだなあ、俺がドタチンのことを売るわけないじゃん」
どうだか、と冷ややかな感情がよぎる。どこまでが本気でどこまでが嘘なのかまったくわからないこの男は、信じるきっかけをまるで人に与えない。普通はどんな詐欺師だって、まずは相手に自分を信じ込ませようとするものではないか。なのに臨也にそういった部分は欠片も見当たらなかった。むしろ評価を落とすことばかりしている気がする。この存在自体も嘘なのかもしれないな、とたまに思うことすらあった。
「だたの俺の純粋な好奇心だよ。お金に換えたりしないって。ま、買う奴は普通にいると思うけど」
「は?誰が買うんだよ、そんなもの」
臨也の口から出た聞き捨てならないセリフに反応すれば、
「ドタチンのことを好きな子とか。結構いるんだよ、門田くんて優しいよねー!って言っている子。よかったじゃないか。ドタチン、モテモテだね」
臨也の弾んだ声とは反対に、門田はヘドロの中に突き落とされた気分だった。俺についての性的な情報を買う奴がいる?それも、俺が好きだからという理由で?冗談だろ。ぞっとした。正直、それを想像して吐き気がこみ上げた。そしてそう言うからには、臨也は売る相手の目星がついているのだろう。
嫌悪で眉間に深い皺を刻んだ門田は、「だったら」と口を開いた。
「おまえはどうなんだ?俺が好奇心で訊くのなら、おまえは答えるのか」
本気で訊きたいわけじゃなかった。くだらない、と言ったことに変わりはない。臨也も自分のことについてはそうそう口を割らないだろうと思っていた。だから臨也があっさりと答えたのには、やや驚いた。
「あるよ」
本のページをめくる手が止まる。やや顔を上げると、臨也と視線が交差した。臨也は口の端を上げ、もう一度「あるよ」と言った。
「どこまでをカウントしていいのか悩むところもあるけど、あるよ」
臨也がその場で大きく伸びをする。
赤いTシャツが上にあがり、わき腹が見える。そこについていた2.3個の痕がどういう類のものかは、すぐにわかった。そして同時に袖から伸びていた両手首に、はっきりと誰かに掴まれた痕があった。あそこまで痕が残るほど強い力を持つのは、女では無理だ。
そう思った瞬間、心臓がぐっときつく締まった。
臨也が女と経験がないとは思わない。きっと門田以上にあるだろう。だけど今、門田の目には、臨也を押し倒して、いいように蹂躙している男の姿が簡単に浮かびあがった。あの男に押さえつけられたら、臨也でなくても誰も抵抗はできないだろう。
(いや、抵抗はしない、か……)
ふたりがどんなふうに抱き合っているのか、見たことがないからわからない。
だけどきっと、いつものふたりではないだろう。少なくとも毎日の攻防で見られるような「怒り」は存在していないに違いない。
静雄に組み敷かれているとき、臨也は始終笑みを浮かべているのだろう。うっとりと、相手の欲情を煽るような目で。足を開き、腕は静雄の首に絡む。声も我慢したりはしない。静雄がうるさいと苛立つくらいに喘ぎそうだ。
だけどそれにも怯まず、臨也はもっと気持ちよくさせろ、と囁くかもしれない。
それが静雄の体にぞくぞくしたものを走らせる。
熱く、眩暈がするような快楽に、静雄と臨也の吐く息の温度があがる。
「ドタチン?どうしたの」
はっと意識を戻した。臨也が地面に片肘をつき、こちらをじっと見ていた。
「あ…いや……」
思わず慌てて目を逸らした。今の瞬間までいた想像から逃げたかった。
「ねえねえ、俺は言ったんだからさ、ドタチンも教えてよ。ドータチン!」
ぱっと軽い身のこなしで起き上がり、臨也の顔が本を遮るように現れ、反射的に身を引いた。臨也は門田の足の間に入り、にじり寄って来る。それに比例して体勢を変えたら、地面に手をついてしまった。
「……そんな好奇心はさっさと捨てろ」
「それはできないなあ。俺の好奇心は俺の生きる原動力だ」
整った顔がすぐ間近にある。どうしようもない好奇心でいっぱいの目は輝いている。だけどのその奥にある、単純な好奇心だけではないなにかが門田には見えた。
こういう臨也の仕草も、静雄ならば計算だと気づかない。単純に、素直に胸に生まれた感情に動揺するはずだ。それだけ静雄は純粋なのだ。ただ力があるから誤解されるだけで。たちが悪いのは、計算だとわかっていても、動かされる自分だ。
臨也は、自分に押し倒されたらどうするだろう。
抵抗するだろうか。静雄とするときのような反応を返すだろうか。
(……なにを考えているんだ、馬鹿馬鹿しい)
これこそがくだらない好奇心ではないか。
「ね、ドタチン」
臨也の右手が門田の顔に触れようと宙に浮く。それが自分の顔に触れる前に、門田は逆に臨也の手首を掴んだ。同時に臨也が「あ」と声をあげた。
「ドタチン、手切れてるよ」
「え?」
「ドタチンって、セックスしたことある?」
唐突すぎる質問に、思わず読んでいた本から視線を外すと、臨也が体の向きを変え、門田に向かって笑った。臨也の笑顔は、無邪気に見えてもそうじゃないことを知っている門田は、眉を軽く顰めただけで本に視線を戻した。だけど臨也はしつこく訊ねてくる。
「ねえ、ある?」
「くだらない」
限りなく素っ気ない声で答えた。だけどそんなことを気にする臨也ではない。
「えー、くだらなくなんてないじゃん。この年頃の男子はみんな興味あることでしょ?ねえねえ、どうなの、ドタチン。俺の予想としてはドタチンはもう済んでると思ったんだけど。ドタチンは女子のブラウス見て挙動不審になってるクラスの奴らとは違うからさあ。ドタチンの相手ってどんな子かなー。年上って気もするけど、大人しい年下っていうのもいけそうだな。ドタチン、ストライクゾーン広そうだから。ね、当たってるだろ?」
べらべらと淀みなく紡ぎだされる声に、やはり図書館に行くべきだったな、と今更ながらに後悔する。だけど図書館に行けば行ったで、そこでも臨也と鉢合わせることが多い。ふたりが求める場所はたいてい同じだった。
「勝手に想像してろ」
自分に被害が出ないのならば、いくら妄想してもらっても構わない。それは本当の自分自身ではないから、なんということもない。もちろん現実の自分とその妄想がかけ離れているからといって、異議を唱えるつもりもない。わかって欲しいと思う相手がわかってくれればそれでいいのだ。
「俺の想像じゃなくってさ、ドタチンの真実が知りたいんだよ。ねえ、教えてよ」
「そんなこと知ってなんになるって言うんだ」
人の経験の有無など、聞いたところでまったく役に立たない。どうでもいい情報だ。そして臨也はそういうどうでもいい情報も、おろそかにはしない。
最近、どうやら臨也は門田の知らない世界に係りがあることがわかってきた。そこでは情報がものを言うらしく、臨也は「どうしてそんなことまで?」と背筋が寒くなるようなことまで知っていることがあった。
「俺の経験なんか、買う奴はいないだろ」
やや皮肉をこめて言ったことだったのに、臨也はそれを軽く吹き飛ばすような笑い声を立てた。
「やだなあ、俺がドタチンのことを売るわけないじゃん」
どうだか、と冷ややかな感情がよぎる。どこまでが本気でどこまでが嘘なのかまったくわからないこの男は、信じるきっかけをまるで人に与えない。普通はどんな詐欺師だって、まずは相手に自分を信じ込ませようとするものではないか。なのに臨也にそういった部分は欠片も見当たらなかった。むしろ評価を落とすことばかりしている気がする。この存在自体も嘘なのかもしれないな、とたまに思うことすらあった。
「だたの俺の純粋な好奇心だよ。お金に換えたりしないって。ま、買う奴は普通にいると思うけど」
「は?誰が買うんだよ、そんなもの」
臨也の口から出た聞き捨てならないセリフに反応すれば、
「ドタチンのことを好きな子とか。結構いるんだよ、門田くんて優しいよねー!って言っている子。よかったじゃないか。ドタチン、モテモテだね」
臨也の弾んだ声とは反対に、門田はヘドロの中に突き落とされた気分だった。俺についての性的な情報を買う奴がいる?それも、俺が好きだからという理由で?冗談だろ。ぞっとした。正直、それを想像して吐き気がこみ上げた。そしてそう言うからには、臨也は売る相手の目星がついているのだろう。
嫌悪で眉間に深い皺を刻んだ門田は、「だったら」と口を開いた。
「おまえはどうなんだ?俺が好奇心で訊くのなら、おまえは答えるのか」
本気で訊きたいわけじゃなかった。くだらない、と言ったことに変わりはない。臨也も自分のことについてはそうそう口を割らないだろうと思っていた。だから臨也があっさりと答えたのには、やや驚いた。
「あるよ」
本のページをめくる手が止まる。やや顔を上げると、臨也と視線が交差した。臨也は口の端を上げ、もう一度「あるよ」と言った。
「どこまでをカウントしていいのか悩むところもあるけど、あるよ」
臨也がその場で大きく伸びをする。
赤いTシャツが上にあがり、わき腹が見える。そこについていた2.3個の痕がどういう類のものかは、すぐにわかった。そして同時に袖から伸びていた両手首に、はっきりと誰かに掴まれた痕があった。あそこまで痕が残るほど強い力を持つのは、女では無理だ。
そう思った瞬間、心臓がぐっときつく締まった。
臨也が女と経験がないとは思わない。きっと門田以上にあるだろう。だけど今、門田の目には、臨也を押し倒して、いいように蹂躙している男の姿が簡単に浮かびあがった。あの男に押さえつけられたら、臨也でなくても誰も抵抗はできないだろう。
(いや、抵抗はしない、か……)
ふたりがどんなふうに抱き合っているのか、見たことがないからわからない。
だけどきっと、いつものふたりではないだろう。少なくとも毎日の攻防で見られるような「怒り」は存在していないに違いない。
静雄に組み敷かれているとき、臨也は始終笑みを浮かべているのだろう。うっとりと、相手の欲情を煽るような目で。足を開き、腕は静雄の首に絡む。声も我慢したりはしない。静雄がうるさいと苛立つくらいに喘ぎそうだ。
だけどそれにも怯まず、臨也はもっと気持ちよくさせろ、と囁くかもしれない。
それが静雄の体にぞくぞくしたものを走らせる。
熱く、眩暈がするような快楽に、静雄と臨也の吐く息の温度があがる。
「ドタチン?どうしたの」
はっと意識を戻した。臨也が地面に片肘をつき、こちらをじっと見ていた。
「あ…いや……」
思わず慌てて目を逸らした。今の瞬間までいた想像から逃げたかった。
「ねえねえ、俺は言ったんだからさ、ドタチンも教えてよ。ドータチン!」
ぱっと軽い身のこなしで起き上がり、臨也の顔が本を遮るように現れ、反射的に身を引いた。臨也は門田の足の間に入り、にじり寄って来る。それに比例して体勢を変えたら、地面に手をついてしまった。
「……そんな好奇心はさっさと捨てろ」
「それはできないなあ。俺の好奇心は俺の生きる原動力だ」
整った顔がすぐ間近にある。どうしようもない好奇心でいっぱいの目は輝いている。だけどのその奥にある、単純な好奇心だけではないなにかが門田には見えた。
こういう臨也の仕草も、静雄ならば計算だと気づかない。単純に、素直に胸に生まれた感情に動揺するはずだ。それだけ静雄は純粋なのだ。ただ力があるから誤解されるだけで。たちが悪いのは、計算だとわかっていても、動かされる自分だ。
臨也は、自分に押し倒されたらどうするだろう。
抵抗するだろうか。静雄とするときのような反応を返すだろうか。
(……なにを考えているんだ、馬鹿馬鹿しい)
これこそがくだらない好奇心ではないか。
「ね、ドタチン」
臨也の右手が門田の顔に触れようと宙に浮く。それが自分の顔に触れる前に、門田は逆に臨也の手首を掴んだ。同時に臨也が「あ」と声をあげた。
「ドタチン、手切れてるよ」
「え?」
作品名:現実と妄想の距離はどのくらい 作家名:きな山