痛みも傷も全て
話の切れ目、カップの紅茶を一口飲み干して、思い出したようにヒバリさんが口を開いた。
「綱吉」
「はい?」
呼ばれる前から、彼の見事な立ち居振る舞いに目を奪われていた綱吉はすぐに返事をする。
静かに置かれたカップは、半分ほどに減った中の琥珀に微かな波を立てただけで、無作法な音を立てなかった。
何て綺麗な所作をする人なんだろう。その手が齎すのは暴虐の限りなのに。
……が、そんな束の間の静寂が壊れるまであと数秒のことだった。
「そういえば、今日ここに来る途中襲撃に遇ってね。足を切ったよ」
綱吉はここ、と差された左のふくらはぎを見る。
マフィア好みの無駄に金を掛けたブラックスーツ、よくよく見れば生地が割けて、汚れて……る!?
ガチャン!
綱吉は、対面したテーブルの上に置かれた華奢な白磁のカップを倒しそうな勢いで立ち上がった。
テーブルが揺れて、端から溢れた紅茶に今は気を止めている暇じゃない。
「でっ、えええぇぇっ!?それでアンタ、処置は!!?」
ムッとした口調でヒバリさんは言い返す。
「止血はした。もう血は乾いてるよ」
「つまり止血しかしてないんですね!あぁもう、何で話し合いを始めた2時間前に言えないんだ、アンタは!」
「いつ言うまでは約束してないはずだけど?」
「言ってる場合ですか!足、こっちに伸ばせますか!?……って、結構派手にやってんじゃないですか!」
綱吉が大慌てで足を確認すると、キツく巻かれた止血布と血の滲んだ包帯。
ひざまずいて、傷に触れないようにそっと、しかし手早く包帯をほどいて見れば、少なくとも骨までは達していないようだった。
とはいえ、結構深い。大振りのナイフでやられたのか。
「ここまで一人で歩いてきましたよね!?何考えてるんですか!」
綱吉はしらっと座っている男をキッと睨み付けた。
相も変わらず不遜でふてぶてしい顔だが、もともと白い肌が更に度を超して白いのに気付く。
(傷がかなり痛んでるんだろうに、アンタは!……というか気付けよ、オレっ)
胸に滲んだ悔しい気持ちを今は無視し、手持ちの道具では心許ないと(怪我が多いファミリーのために、どの部屋にも備え付けの救急箱があるのだ)、綱吉はソファセットの数歩後ろにあるデスクに置かれた内線を取った。
信頼できる右腕がワンコールで内線を取る音がするなり、早口に畳み掛ける。
「あ、もしもし隼人?救急キット持ってきて早く!今、晴れの匣持ってる人いるならそれも!あと医療班にも怪我人の連絡よろしく!……え?オレじゃないよ、ヒバリさん!」
半ば叫ぶようにお願いすると、直ぐに承ってくれた。
指示は迅速に伝わるだろう。しかし今は広い施設内を移動する数分が憎い。
(『またですか』って?またなんだよ!)
思わず口をついたらしい、右腕の言葉に深く同意する。
毎回、血を止めれば終わりって問題じゃないの、この人は今もってわかっちゃいないんだ!
いや、正確にはわかってるかもしれないけど、『傷ついた身体には触れられたくない』と自分でできる程度の処置しかしないから堪らない。
医療班に見せるのは、いつも少なくとも動き回れる程度に回復した後。
例の約束のせいで、綱吉だけには何とか傷を見せてくれるようになったのだが……今のようにかなり渋々だ。
たぶん、傷ついた体に触れられたくないというだけでなく、避けきれず傷を負わされたことに対する憤りもあるのだろう。
だから余計に、根の深さが窺える。
あの時ヒバリさんに殴られても食い下がって、了承をもぎ取っておいて良かったと本当に思う。
『手負いの獣』とはよくいったもの。
まんますぎて笑えやしない。
湿りそうになる声を努めて抑えて、オレはヒバリさんに語りかけた。
「……怪我なんかしてほしくないんですけど、したら放っておかないで下さいよ。死んじゃったらどうするんですか」
「僕はこの程度じゃ死なないよ」
何を大袈裟なと言いたげに、彼は淡々としていた。
(そりゃアンタにとってはそうかもしれないけど!)
天下の雲雀恭弥が、怪我一つで喚いている姿など想像はつかない。
しかし、あまりにも怪我に頓着しない物言いだったので、オレはカチンときた。
「そんなの、わからないじゃないですか!些細な傷でも、具合を悪くすれば大事に至ることだってあるんですよ!?」
綱吉が医療設備に拘る理由を何だと思っているのか。
治療を受ければ、助かる命が――助かったはずの命があったからだ。
それをヒバリさんに押し付けても、彼にとっては関係ないことで、迷惑だとわかっていても、綱吉には譲ることが出来なかった。だって。
「オレは……オレはヒバリさんに何かあったら…っ!」
感情の昂りのままに、最後は言葉を詰まらせたオレをじっと見つめた後、一つため息をついてヒバリさんは言った。
「……わかったよ」
「へっ?」
「怪我は極力しない。万が一、負傷したら処置はできるだけ受けるようにしよう。これでいいんだろ?」
面白くなさそうだったが、それは綱吉の意見をそのまま受け入れてくれるということだ。
急に翻された態度に、うっかり唖然としてしまった。
しかし、言いたかったことは伝わったようだったので、オレは慌てて大きく頷いた。
「は、はいっ!」
とはいえ、どうしてヒバリさんが急に譲歩してくれる気になったのかはかなり気になるところだ。
(……うざったくなったとか……?)
あれだけしつこくすればヒバリさんに煩がられるのは当たり前だが、それはそれで何だか悲しい。
しかし、要望は通ったのだから、今は喜ぶべきだった。
「ありがとうございます」
かくして一瞬だけ沈んだ後、笑顔で礼を言った綱吉を、ヒバリさんはじっと見つめていた。
そして何かを言おうとしたところで……。
「十代目!お待たせしました」
待ちわびた救急キットが届いたのだった。
作品名:痛みも傷も全て 作家名:加賀屋 藍(※撤退予定)