然らば、あえかなる日々
常日頃から、独占欲やら特別意識、思い込みなどと云った、自分にマイナスの要素をもたらすものに捕われては不可ない、そう思っていた。そう思っていたはずであるのに、何時の間にか其れらに絡まってしまっていた。そうして真実を知った。
「……もう戻れないなぁ、昔みたいには」
楽しかった中学高校時代。何の疑いもなく、過ごしていた日々。其れはもう永遠に失われたように、臨也は感じる。中学からずっと一緒であったのに、新羅には臨也に対するある種の誤解が連なっていて、もう其れを今更解くことは困難であり、無意味に思える。
「あーぁ、そっか、そうなのか……」
そう呟いた自分の声が、冷たくキッチンのタイルに響いた。
「……何か悪かったな、付き合ってもらった上に泊っちまって」
「いやいや、此れでセルティの気も晴れるならお安い御用さ」
詫びる静雄に、其れを止める新羅。場所は池袋東口五差路付近、時刻は午前七時過ぎ。朝帰りの若者や通勤の人々、そして夜行バスから降り立った人々などで、池袋は朝から人が溢れている。そんな中、二人は歩きながら話を続ける。
「そういや、お前予定とかあったんじゃないのか?」
突然思い出したように云う静雄に、「んー、まぁ。……臨也だから大丈夫だよ」と新羅が答えると、「朝から聞きたくねぇ名前だな」と云って、静雄は舌打ちをした。
けれど苛々とはしないようで、「……でもノミ蟲には悪いことしたな」と珍しく臨也に対して気を使う。其れを聞き、静雄の気分が頗る上々なのを解すると、新羅は満足そうに口元に笑みを浮かべる。すると差しかかった交差点の信号が青に変わった。
ゆっくりと其れを渡り、二人は渡り切った先の信号が変わるのを待つ。其の時、不意に視線を感じ、新羅は今しがた渡り終えた横断歩道を見た。
「……えっ?」
思わず新羅は驚きの声を洩らした。歩道の向こう岸には、見覚えのある黒いジャケットの青年。間違いなく、臨也だった。
臨也は微笑むと、一言だけ、何か云ったように、新羅には見えた。けれど、遠過ぎて唇の動きから其れが何と云う言葉だったのか、はっきりと分からない。
「……臨也?」
そう呟き、新羅が立ち尽していると、不意に肩を叩かれる。
「おい、信号変わったぞ?」
そう怪訝な顔で自分を見つめて来る静雄に、「今さぁ、臨也が向こうに……」と新羅は対岸を指差す。新羅の指差す方向を「あぁ?」と云いながら静雄も見た。
「あ? ……居ねぇじゃねぇか」
静雄に返された言葉に驚き、新羅も其方を見る。
……いない。確かに向こう岸にはもう臨也の姿は見当たらなかった。
「見間違えだろ。ほら、また赤になっちまう」
そう云って歩き出す静雄に、……そうだね、と返事をし、新羅は小走りに其の後を追う。
……見間違えるわけないよ。中学の時からずっと知ってるんだ。でも、何て云ってたんだろう? 臨也、君は何て云いたかったんだい?
静雄の手前、新羅は湧きだす疑問を胸の裡で留める。もう一度見えないかと思い、新羅は一瞬立ち止まって振り返ってみたが、やはり辺りに臨也の姿は見えなかった。
雲の少ない空から降り注ぐ朝の陽の光と人々の慌ただしさに乗じて、臨也は池袋の街に紛れ込んでいた。そうして仲良さ気に歩く静雄と新羅を、眺めた。二人の様子は「仲の良い友人」の其れで、格好は目立つものの、街中にきちんと溶け込んでいた。
「マゾというか、自分に対してサドというか、自分から最後の駄目押ししに来るなんてね」
池袋駅へ向かいながら、臨也は自分自身を嗤う。
自分よりも静雄を優先した新羅。そんな二人がどんな様子なのか、其れを見たくて臨也は池袋にやって来たのだった。
「うん、……ちゃんと友達って感じ」
先程見た二人の様子を思い出し、そう感想を洩らす。そして同時に、自分にはああいったものは無理である、とも思う。
大切なもの、特別なものは、力となるが弱さにもなる。自分はあくまでも通常の人間の範疇に収まり、其れらの責任を負えるような強靭な精神や肉体もない。そうなると、大切や特別といった存在は完全に自分にとって弱みになる。紀田正臣がいい例だった。
「……俺には無理、無理だね。だから皆を平等に愛するよ、一人を除いてね」
駅構内に入る直前、臨也はそう後ろを振り返る。何時にない青空、陽の光に街が輝いて見えた。其れを満足そうに眺めると、「今までありがとう、然様なら」と交差点で呟いた言葉を繰り返す。
其れから踵を返すと改札へ向かい、池袋の街と其処に横たわる思い出に別れを告げた。
然らば、あえかなる日々
(2010/06/17)
作品名:然らば、あえかなる日々 作家名:Callas_ma