然らば、あえかなる日々
「……あぁ、そっか。わかったよ、仕方ないさ。君も一応医者だからね。 ……えぇ? そんなことないさ。……うん、あぁ、はいはい。また明日」
電話を切り、臨也は携帯電話を放る。急患が入ったようで、新羅は来られなくなったらしい。其れをやたらと新羅は詫びた。臨也は大して気にしていない。お互い自由業の自営業、何時仕事が入って何時仕事が無くなるかなんて予測不可能。ドタキャンなど、よくある話。意気込んでいただけにややがっかりした心持、けれど臨也は仕方ないと思っている。非合法であるかも知れないが、新羅はやはり医者なのだ。そう考えれば、文句など微塵も出てこない。
「まぁ仕方ない。子供じゃないんだから、我が儘は云わないさ」
そう云って、臨也は今宵も一人カモミールティーを淹れる。
缶の中身はあと四つ。
缶の中身はあと三つ。
缶の中身はあと二つ。
缶の中身はあと一つ。
缶の中身はあと一つ。
缶の中身はあと一つ。
缶の中身はあと一つ。
缶の中身はあと一つ。
缶の中身はあと……。
缶の中身はあと……。
缶の中身はあと……。
結局連日の急患、中には臨也自身に仕事が入り無理だった日あるが、兎にも角にも新羅の訪問は達成されておらず、臨也の腕前も披露されず仕舞い。其れでも、臨也は「仕方がない」と割り切れた。ただ、「タダ」とはいかない。世界を牛耳り蔓延る資本主義は個人的な問題にも介入し、臨也に「安眠」という対価を要求し、四日前辺りから有無を云わさずもぎ取って行った。
「……今日も、眠れない。そして、気が滅入る」
そう呟くと、臨也は月明かりの中、手探りで新羅から貰った薬の袋を探す。そしてやっと探り当てた薬の袋を、床にぶちまけた。けれど出て来るのは幾つかのビタミン剤。其れも、もう空になったものばかり。幾ら探しても、アルミ箔がかさりと音を立てるだけで眠剤は見つからない。
――三回分しか入れてないから。
そう云った新羅の言葉が、不意に脳裏によみがえる。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……。噫、昨日ので最後か」
薬を飲んだ夜を指折り数えてそう呟くと、臨也は床に座りこんだ儘、がっくりと項垂れた。
「……ぅぁあぁああぁあぁぁぁあぁっ!」
呻くように叫ぶと、臨也は後ろにばたりと倒れた。薬を飲んだところで、実はあまり効果など無い。結局殆ど眠れずに、翌朝が辛いだけ。そんな状態が二、三日続いていて、臨也は肉体的にも精神的にも辛くなっていた。
時間は午前三時をようやく回ったところ。夜明けはまだ遠い。何だか酷く孤独を感じ、そんな自分が悔しくて、臨也は少しだけ目を潤ませる。けれど、其れが頬を伝うことはない。
ただ、冷たいフローリングに背中の体温が溶け出して行った。
結局眠りに着いたのは朝の七時を過ぎた頃で、目を覚ましたのは昼の二時をまわってからだった。連日の寝不足か、変な睡眠の仕方をした所為なのか判断付きかねるが、頭痛が酷い。
「取引ってのは大抵暗くなってからだから、良かった此の仕事で」
痛み止めを飲んで一息吐きながらそう独り言を云うと、臨也は昨日新羅と電話で話したことを思い出す。
――ずっと流れてしまったから、会う時はゆっくりご飯でも食べようか。
そんな話になっていた。其れを思い出していると、携帯に連絡が入る。クライアントからの取引の日時変更だった。何時もなら嫌味の一つや二つを添えるのだが、体調のよくない臨也にとっては此の上無い好都合な申し出。二つ返事で了承すると、電話を切り、臨也はソファーに倒れ込む。
……新羅が来るまで大人しく寝ていよう。そう決めると、臨也は眼を閉じた。
其れから何時間経ったのだろうか、臨也は見当が付かなかった。眼を覚ますと、辺りは随分暗くなっていて、其れは夕方をスキップ、まるで夜。其れを臨也がはっきり認識するまでやや時差があった。其の時差を克服すると、慌てて部屋の明かりを付け、時計を確認する。時刻は午後7時半近く、待ち合わせには余裕があった。其れに胸を撫で下ろす。
「……意図的に遅れて行くのと、リアルに遅れて行くのは全然違うんだよね」
そんな独善的な論を展開すると、臨也は身支度を整え始めることにした。
シャワーで寝汗を流し、着替え終わってもまだ時間があったので、臨也は買ってから其の儘のティーカップを戸棚から取り出す。其れから其の包みを解くと、食洗機へ突っ込んだ。食洗機を回しながら、食事は何処へ行こうかなどと考えていると、携帯が着信を告げた。
「あ、臨也。僕だよ」
「あぁ、新羅。今日も急患かな?」
「……いや、急患ではないけど」
臨也が嫌味を込めて此処数日している問いをすると、此れまでとは違い、新羅はややお茶を濁す。其の態度を臨也が訝しがると、新羅は降参したように口を開いた。
「……静雄がさ、元気ないみたいで。セルティに頼まれたから、ちょっと話を聞いてくるよ。彼女までそわそわして如何しようもないんだ」
そう云うと、新羅は「臨也には悪いのだけど、また今度にしてくれよ」と付け足した。
其の要求に、臨也は衝撃を受け、思わずヒステリックな声を上げる。
「はぁ? 何で? 先に約束してたのは俺だ。なのに何で? 何であいつを優先するんだよ、そんなのあんまりだっ!」
其れに対して新羅は、「……本当、ごめん臨也」と申し訳なさそうに詫びる。其の声に、臨也は新羅が一番苦しい立場なのを理解する。頭では分かる、けれど、如何しても許せない。
「……あんな化け物、殺したって死なないから放っておけばいいんだ。大体新羅は昔っからシズちゃんに甘過ぎるんだよっ」
喚くように云うと、受話器の向こうから大きな溜息が聞こえた。そして次に「……そうかも知れないねっ」と云う新羅の強い声が聞こえて来る。
「でもさ、臨也。静雄は君と違って身体は丈夫だけど精神的にはナイーブなんだ。小学校の時から、僕は静雄を知ってる。だから、……ごめん」
今回の埋め合わせは、必ずするから――。
最後にそう残して、電話は切れてしまった。臨也は無言で回線が切れたことを伝える無機質な音を聞く。何か言葉にしてみようとするも、額は固まったように何も引き出すことをしない。
暫くののち、臨也は携帯電話を床に投げつけた。其れから乱暴にキッチンへ向かい、とうに洗い終わっていた食洗機からティーカップを掴み出し、其の手を振り上げる。
けれど、投げつける気にはならなかった。
「……此れじゃ、子供じゃないか」
そう呟くと、臨也は振り上げた手をゆっくりと戻し、シンクに寄り掛かるとカップを見つめる。
初めて話をした時から、新羅は何だかんだ文句を云いながらも自分とずっと付き合っていて、だから例の首なし女には敵わないけれど、其れなりに大事に思っていてくれているのだ。
臨也はそう思っていた。
けれど、其れは自分の自惚れだったのだと、気付かされた。
また、新羅も結局他の人間と同じように自分のことをカテゴライズしていたのだと知り、何だか、酷くがっかりしてしまった。
「……俺だって、たまには落ち込んだりするんだよ」
そう呟いてみて、臨也は気が付く。
――噫、絡め捕られてしまったんだ。
作品名:然らば、あえかなる日々 作家名:Callas_ma