Hell or Heaven ?
―――油断、したかな。
追い詰められ、壁に自身の背が触れたのを感じると同時に、遂に臨也はずるずるとその場に座り込んだ。こめかみや唇の端、その他体中の至る所から血が流れている。骨もとっくに何本か折れてしまっているだろう。
「ちょーっと、調子に乗りすぎたみたいだねぇ、折原さん」
「……あんな話に騙される方が、悪いんだよ」
言い返す声に力はなく、ゼイゼイと苦しそうな呼吸音ばかりが耳につく。
臨也がチンピラ風の男たちに池袋の路地裏で殴られ、車で拉致されてから約一時間が経過していた。
現在、彼らがいるのは町外れの廃倉庫であり、もちろん騒ぎを聞きつける人間など周囲にはいない。
いつの間に増えたのだろうか、計12、3人程の青年たちに臨也は問答無用で殴られ、蹴られ、もはや体力は限界にまで来ていた。
今、半径5メートル程の距離を置いて、男たちは座り込む臨也を半円状に取り囲んでいた。薄暗い廃倉庫の中、まさに止めの一歩手前という雰囲気。臨也を見下ろす幾つもの下卑た笑みが、獲物をいたぶるのが楽しくて仕方ないと主張している。
「そう、ここにいるのは、みーんなあんたに騙された奴だよ。昨日、ダラーズの掲示板に『折原って奴ムカつく』って書き込んだら、結構同志が集まっちゃってさぁ。メールでやり取りして、俺らで殺っちゃおうってことになっちゃって」
どうやら、今話している茶髪のチンピラがこの場のリーダーのようだ。その他の若者たちにも茶髪や金髪の者が多く、「いかにも」な暴力グループの様相を呈していた。彼らが柄物のシャツや派手なTシャツに、擦り切れたジーンズを揃って身に付けていることも、チームとしての何らかの連帯感を感じさせる一因となっている。
もっとも、『無色』のカラーギャングである彼らに対して、ましてや今日始めて顔を揃えた彼らに対して、それは見込み違いというものなのだが。
―――ダラーズか。
臨也は朦朧とした意識の中考える。確かにここにいる男たちは、彼が今回情報を流して操り、良いように利用した者たちのようだ。臨也としては警察に捕まらなかっただけ幸運だと思っていたのだが、もちろん男たちにそんな呑気な考えが通用するはずもない。
―――こういうピンチでは、ヒーローが奇跡的に助け出してくれるってのがお決まりの筋書きなんだけどな……
門田や波江や新羅、あるいは他の誰かが自分がここにいると気付く可能性を検討しようとしたが、不毛に思えたので止めた。臨也はあらゆる思考を放棄し、ただぼんやりと浮遊する意識に身を任せることにする。
―――……ああ、どうせ死ぬなら天国に行きたいなぁ。
臨也は、この場で自分が殺されるだろうと薄々理解し始めていた。それこそ、奇跡でも起きない限りは。
廃倉庫内にいる者たちが纏うオーラは、どう見ても本気だった。本気で臨也を消すつもりでここにいる。正直あの程度のことで殺されるなど、臨也にとっては割に合わないとさえ思えたのだが、種を蒔いたのは紛れもなく彼自身なのであり、正に自業自得という状況ではあった。
「……っ……」
体中の痛みは半分麻痺し始めていたが、少しでも体を動かそうとすると、悲鳴を上げたくなる程の激痛が走る。もう、呼吸をするのも辛い。
―――そう、どうせ死ぬんなら、シズちゃんに殺され………
臨也は弱々しく舌打ちをした。
おそらくは自分の人生最期の瞬間に、よりによってあの男のことを思い浮かべてしまうなんて。
だが、バーテン服を纏った金髪の昔馴染みの、思い出したくもないはずのその姿が脳裏に鮮明に浮かび上がってきて、―――臨也はふいに、泣き出したい程の激しい思いに捕らわれた。
―――懐かしい。
彼との殺し合いが、どうしようもなく懐かしかった。
ナイフや自販機が飛び交う、喧嘩の範疇など遥かに超えた、紛れもない殺し合い。
実際に死を目前にした状況で、そんなことを思い出す自分を臨也は心から自嘲する。
だが、それが現実だった。
どこまでも破壊的で、暴力的で、戦争とさえ言える殺し合い―――だがそれでいて決して命を落とすことはない、互いに一線を越えないよう無意識に守り合っていた、あの心地よい殺し合いを、
彼と、もう一度したい、と、臨也は心から願った。
―――これが走馬灯とかいうものなら、俺の人生はどうしようもなく最悪だったな。
臨也が再び心中でそう自嘲すると、茶髪のリーダー格の男が頭上から濁った声を浴びせかけてきた。
「何笑ってんだよ。さすがのあんたと言えど、怖くて頭がおかしくなったか?」
どうやら本当に笑っていたようだと、臨也はそこでやっと気が付いた。
体中の痛みは相変わらずだったが、気分は不思議と穏やかになってきている。悟りを得た僧とはこのような気分なのだろうかと臨也はぼんやり思った。
「へっ、覚悟はできたみてぇだな……安心しな、きっちり地獄へ送ってやっから……」
防御する体力も、言い返す気力も既に残ってはいなかった。
臨也は自分を取り囲む半円の内、斜め前方にいた黒髪の男が鉄パイプを持ち上げるのを見た。
―――どうやら、天国まで、あと5秒ってとこかな?
黒髪の男が床を蹴り、臨也との距離を一気に縮めてくる。臨也は両目を閉じた。
―――4、3、
間近で足音が鳴る。
―――2、
鉄パイプが振り下ろされる、ひゅうっという音が倉庫内に響く。
―――1、
臨也は、自分の前髪が微かに風に揺れるのを感じた。
―――0。
―――――――――――――――――――――――――――。
―――――――――――――――――――――――――――。
―――マイナス1秒……2秒、3秒。
―――…………お?
―――生き、てる?
彼の前髪は風に揺れたきり、血に染まることはなかった。
―――うそ、奇跡?
臨也は心臓が激しく早鐘を打っているのを感じつつ、そっと、ゆっくりと強張った両瞼を持ち上げる。
額の上、10センチ程のところで鉄パイプがぎりぎり停止していることを認め、さすがに全身から血の気が引く。
「……ったく……」
思いがけない生命の延長に安堵すると同時に、未だ激しく混乱していた臨也は、自分のすぐ頭上から聞こえる声をまともに認識することができなかった。
そう―――普段の臨也ならば、その瞬間に気付いただろう。
しかし現在の彼では、肉体的にも精神的にもそれは不可能だったのだ。
臨也の眼前から鉄パイプがわきへどけられた。焦点の定まらない目が、すぐそこにある擦り切れたジーンズを履いた両足を捉える。
どうにか数回瞬きをし、臨也は意図的に自分を殺すことを中止した、黒髪の男をゆっくりと見上げる。
「―――いいザマだなぁ」
臨也の鼓膜がその男の声で震え、臨也の瞳がその男の顔を映し出したとき。
そこで臨也は、ようやく気付いた。
「――――――――――マジで?」
「死に損ねた気分はどうだ?―――いざやくん」
右手に鉄パイプを握った黒髪の男―――平和島静雄は、そう言って不敵な笑みを浮かべた。
追い詰められ、壁に自身の背が触れたのを感じると同時に、遂に臨也はずるずるとその場に座り込んだ。こめかみや唇の端、その他体中の至る所から血が流れている。骨もとっくに何本か折れてしまっているだろう。
「ちょーっと、調子に乗りすぎたみたいだねぇ、折原さん」
「……あんな話に騙される方が、悪いんだよ」
言い返す声に力はなく、ゼイゼイと苦しそうな呼吸音ばかりが耳につく。
臨也がチンピラ風の男たちに池袋の路地裏で殴られ、車で拉致されてから約一時間が経過していた。
現在、彼らがいるのは町外れの廃倉庫であり、もちろん騒ぎを聞きつける人間など周囲にはいない。
いつの間に増えたのだろうか、計12、3人程の青年たちに臨也は問答無用で殴られ、蹴られ、もはや体力は限界にまで来ていた。
今、半径5メートル程の距離を置いて、男たちは座り込む臨也を半円状に取り囲んでいた。薄暗い廃倉庫の中、まさに止めの一歩手前という雰囲気。臨也を見下ろす幾つもの下卑た笑みが、獲物をいたぶるのが楽しくて仕方ないと主張している。
「そう、ここにいるのは、みーんなあんたに騙された奴だよ。昨日、ダラーズの掲示板に『折原って奴ムカつく』って書き込んだら、結構同志が集まっちゃってさぁ。メールでやり取りして、俺らで殺っちゃおうってことになっちゃって」
どうやら、今話している茶髪のチンピラがこの場のリーダーのようだ。その他の若者たちにも茶髪や金髪の者が多く、「いかにも」な暴力グループの様相を呈していた。彼らが柄物のシャツや派手なTシャツに、擦り切れたジーンズを揃って身に付けていることも、チームとしての何らかの連帯感を感じさせる一因となっている。
もっとも、『無色』のカラーギャングである彼らに対して、ましてや今日始めて顔を揃えた彼らに対して、それは見込み違いというものなのだが。
―――ダラーズか。
臨也は朦朧とした意識の中考える。確かにここにいる男たちは、彼が今回情報を流して操り、良いように利用した者たちのようだ。臨也としては警察に捕まらなかっただけ幸運だと思っていたのだが、もちろん男たちにそんな呑気な考えが通用するはずもない。
―――こういうピンチでは、ヒーローが奇跡的に助け出してくれるってのがお決まりの筋書きなんだけどな……
門田や波江や新羅、あるいは他の誰かが自分がここにいると気付く可能性を検討しようとしたが、不毛に思えたので止めた。臨也はあらゆる思考を放棄し、ただぼんやりと浮遊する意識に身を任せることにする。
―――……ああ、どうせ死ぬなら天国に行きたいなぁ。
臨也は、この場で自分が殺されるだろうと薄々理解し始めていた。それこそ、奇跡でも起きない限りは。
廃倉庫内にいる者たちが纏うオーラは、どう見ても本気だった。本気で臨也を消すつもりでここにいる。正直あの程度のことで殺されるなど、臨也にとっては割に合わないとさえ思えたのだが、種を蒔いたのは紛れもなく彼自身なのであり、正に自業自得という状況ではあった。
「……っ……」
体中の痛みは半分麻痺し始めていたが、少しでも体を動かそうとすると、悲鳴を上げたくなる程の激痛が走る。もう、呼吸をするのも辛い。
―――そう、どうせ死ぬんなら、シズちゃんに殺され………
臨也は弱々しく舌打ちをした。
おそらくは自分の人生最期の瞬間に、よりによってあの男のことを思い浮かべてしまうなんて。
だが、バーテン服を纏った金髪の昔馴染みの、思い出したくもないはずのその姿が脳裏に鮮明に浮かび上がってきて、―――臨也はふいに、泣き出したい程の激しい思いに捕らわれた。
―――懐かしい。
彼との殺し合いが、どうしようもなく懐かしかった。
ナイフや自販機が飛び交う、喧嘩の範疇など遥かに超えた、紛れもない殺し合い。
実際に死を目前にした状況で、そんなことを思い出す自分を臨也は心から自嘲する。
だが、それが現実だった。
どこまでも破壊的で、暴力的で、戦争とさえ言える殺し合い―――だがそれでいて決して命を落とすことはない、互いに一線を越えないよう無意識に守り合っていた、あの心地よい殺し合いを、
彼と、もう一度したい、と、臨也は心から願った。
―――これが走馬灯とかいうものなら、俺の人生はどうしようもなく最悪だったな。
臨也が再び心中でそう自嘲すると、茶髪のリーダー格の男が頭上から濁った声を浴びせかけてきた。
「何笑ってんだよ。さすがのあんたと言えど、怖くて頭がおかしくなったか?」
どうやら本当に笑っていたようだと、臨也はそこでやっと気が付いた。
体中の痛みは相変わらずだったが、気分は不思議と穏やかになってきている。悟りを得た僧とはこのような気分なのだろうかと臨也はぼんやり思った。
「へっ、覚悟はできたみてぇだな……安心しな、きっちり地獄へ送ってやっから……」
防御する体力も、言い返す気力も既に残ってはいなかった。
臨也は自分を取り囲む半円の内、斜め前方にいた黒髪の男が鉄パイプを持ち上げるのを見た。
―――どうやら、天国まで、あと5秒ってとこかな?
黒髪の男が床を蹴り、臨也との距離を一気に縮めてくる。臨也は両目を閉じた。
―――4、3、
間近で足音が鳴る。
―――2、
鉄パイプが振り下ろされる、ひゅうっという音が倉庫内に響く。
―――1、
臨也は、自分の前髪が微かに風に揺れるのを感じた。
―――0。
―――――――――――――――――――――――――――。
―――――――――――――――――――――――――――。
―――マイナス1秒……2秒、3秒。
―――…………お?
―――生き、てる?
彼の前髪は風に揺れたきり、血に染まることはなかった。
―――うそ、奇跡?
臨也は心臓が激しく早鐘を打っているのを感じつつ、そっと、ゆっくりと強張った両瞼を持ち上げる。
額の上、10センチ程のところで鉄パイプがぎりぎり停止していることを認め、さすがに全身から血の気が引く。
「……ったく……」
思いがけない生命の延長に安堵すると同時に、未だ激しく混乱していた臨也は、自分のすぐ頭上から聞こえる声をまともに認識することができなかった。
そう―――普段の臨也ならば、その瞬間に気付いただろう。
しかし現在の彼では、肉体的にも精神的にもそれは不可能だったのだ。
臨也の眼前から鉄パイプがわきへどけられた。焦点の定まらない目が、すぐそこにある擦り切れたジーンズを履いた両足を捉える。
どうにか数回瞬きをし、臨也は意図的に自分を殺すことを中止した、黒髪の男をゆっくりと見上げる。
「―――いいザマだなぁ」
臨也の鼓膜がその男の声で震え、臨也の瞳がその男の顔を映し出したとき。
そこで臨也は、ようやく気付いた。
「――――――――――マジで?」
「死に損ねた気分はどうだ?―――いざやくん」
右手に鉄パイプを握った黒髪の男―――平和島静雄は、そう言って不敵な笑みを浮かべた。
作品名:Hell or Heaven ? 作家名:あずき