よしなきこと
「市。そなたは、この浅井長政に惚れているか」
何故そのようなことをきくのか、という目をされた。そう思われて当然、私もそう思っているのだから。
市はうなづかなかった。素直な女なのだな、嘘をつけない女なのだ、と、私はそれを好意的に解釈する。
「そのはずがないだろう。私とそなたは所詮、形だけの夫婦。家同士の繋がりだ。私も、そなたを愛してはいない」
「………」
泣くな、泣くなよ、泣いたら面倒だ、と念じながら見守っていると、市は泣かなかった。
よし、と私は密かに安心する。
「だが、我々は夫婦だ。仮初とはいえ、誓いあった夫婦なのだ。先、正義とは何かと私に尋ねたな、市。正義ては、人の本分をまっとうすることだ」
「本分…?」
「そうだ。人は、生まれながらに役目をもつのだ。その役目に従い、皆が日々の生活を力一杯送っていれば、この世に戦などおきぬのだ」
「…………」
「農民に生まれたのなら農民らしく生き、死ねばいい。商人に生まれたのならば商人としての生涯をまっとうすればよいのだ。それが人の本分、生まれもってきた人の使命というものぞ」
市は黙って私の話をきいている。それにすこし気をよくした。
無駄口は即ち、悪なのだ。
「農民に生まれたものが、農民の役割を越えようとすればそれは悪なのだ。同時に、指導者として生まれたものが指導を放棄することも悪だ」
私は、自分が正しいことを言っているという確信に満ちていた。
腕を組み、市を見下ろす。
市は考える素振りを見せていた。私がはじめてみる素振りだ。
珍しいので、すこし眺めていた。そうすると、女は口をゆっくり開いた。
「でも……農民として、生まれてきたかったわけでは、ないわ………」
この子は。
いつくしむように、首桶を撫でる。
それは不気味な光景だった。
嘘のように美しい女が、生首の入った桶を大事そうに抱えている。
そのように血なまぐさいもの、身分の高い女であれば、怖れるのみであろうに。
「私とて、このように生まれてきたかったわけではない!」
知らず、声が荒々しくなった。このような物言いをしては、市は怯えるだけだと知っていたのに。
これは失策だ。舌を打つ。
チッ、と、かすれた音が聞こえる。
ここまで慎重にやってきたのに、この女はきっと泣く。また泣かせる。
女がめそめそと泣くのはみたくないというのに。
もう自棄である。
「………そのようなことは、人間には選べないのだ! 農民になりたいだの職人になりたいだの、選んで生まれてくるわけではない! それは私たちの与り知らぬところで決まるもの、ならばそれに応えることこそ、まこと人間の道と心得よ! 私は! 正義のために理の兵士をもって、この世の悪を削除するために生まれてきたのだ、そうでなくてはならぬ!」
私は市から首桶を取り上げた。
「この少女のように、農民が農民以上を望むのは悪である。そして、武士が武士以下を望むこともまた悪なのだ!」
だから私は、やらねばならぬ。やり遂げなくてはならぬ。
「今は戦乱の世、人が、自分の生まれ持った立場以上のものを望む混沌の時代よ。だが、正義があれば世の中は再び平和になるのだ。正義とは、己の立場に正直になることぞ。皆が皆、農民が農民としての、商人が商人としての、職人が職人としての、武士が武士としての、持って生まれた役割を誠実にはたしていれば、畢竟、戦など起こらぬのだから」
「……市も、……そうなの?」
かぼそい声で、市が言った。
「市は……にいさまの、妹……その役目って……なに?」
市は、私にとって幸運なことに、泣いてはいなかった。
必死に考えているように見えた。私の言ったことがどれくらい理解できているかはわからないが、理解しようとしている、その姿勢にいっそのこと驚いた。
「……地獄に、……行くこと?」
市の目の奥にいつも潜んでいる、暗闇の正体を見た気がした。
あの男は、確かに魔王を名乗るだけのことはある。数え切れないほど出会ったが、戦いを好む、本物の悪だ。
それを長く近くでみてきたのならば、この女のような目になることもあろう。
今は成り行き上、仕方なく手を組んでいるが、いずれ削除しなければならないときが来る。
武士ならば武士として生きればいいものを、あの男は魔王などというものを目指している。それは本分の逸脱、すなわち悪である。
「市は……死ぬのね、それが……役目」
「馬鹿な」
市が、顔をぱっとあげた。私が否定したことが、気に入らぬとでもいいたげに。
「お前は信長の妹であったが、今は私の妻であろう。お前の役目とは、私の妻であることだ」
「………」
「私の妻としての役割を果たせよ。不満か? お前の言い分はわかる、私の妻になりたくてなったわけではないと、こういいたいのだろう。お前が、信長の妹になりたくて生まれてきたわけではないように。だが、それでもお前は私の妻だ。勝手に死ぬことは許さぬ。それは悪だ。この浅井長政の妻になった以上、お前の使命は、私の妻であることだ」
それが正義というものだ。
一息にいいきると、長い沈黙が訪れた。
市はわかっているのかわかっていないのか、どっちともとれない表情で私を見ている。
私とて同じ、お前の夫になりたくてなったわけではないのだ。生まれたくて、浅井家の跡取りに生まれたわけではないように。
だが、なってしまった。だが、生まれてしまった。
それならばそのことに不満など言わず、与えられた役目を果たすことのみが、人の身に出来ること。
それだけが純粋な正義なのだ。
「市、お前に、私の妻として生きる覚悟があるか」
大事なのはそれだけだ。この女を愛せるかどうかなどは問題ではない。この女が、私を愛するかどうかも問題ではない。
この女に、正義の心があるかどうかが問題なのだ。
「………いいの? 長政さまは、市で、いいの?」
「いいも悪いもない。そうなってしまったのだからな。私は正義を行うだけだ」
言葉が足りないのなら、出来るだけお前の話をきこう。
話がききたいのなら、出来るだけ話してやろう。
だからお前、私の妻として生きるのだ。
「今一度問おう。市、お前は私の妻として生きるか否か?」
ここまで言って、否といわれたのならば仕方ない。時期をみて離縁するより他にない。
だが市は、頷いたのだ。
私がはじめてみる微笑みを浮かべ、頷いたのだ。
僅かな微笑だった。あるかなきかの口唇の反り。
「市は……長政さまの、妻になります」
このような顔でいつもいてくれるのならば、鬱陶しいなどとは決して思わないだろう。
思わずそう思ったが、それは正義とはなんの関係もない。
唇を真一文字に絞り、私はそれでよい、と頷いた。