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賢い少年さくらとおばけのマリー

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『さくら』
 さくらはマリーの声を聞き逃さない。
 それがどんなに小さく、かぼそくても。
 足を止め、無愛想に訊ねる。
「なんだ」
 マリーはふんわりと笑った。
 開かれた口の中に、光を吸収する闇が見える。
 笑顔は普通、太陽のように華やいでみえるものだ。
 実の姉を見慣れているさくらにとって、それは太陽が東から昇るくらい当たり前のことだった。
 だが、目の前の少女の笑顔は違う。
 その笑顔には、ぞくり、と背筋を震わす冷たさがある。
 あどけない瞳は硝子球のように、あるいは凍りついた湖のように、ひどく無機質だ。
『私、おさかながみたいわ……』
 さくらはわかった、とうなづいた。




 連れだって家を出たとき、マリーの持ち物は二つだけ。
 ひとつはせんすいかんくじらごう。
 もうひとつは人形のシャーロット。
 さくらは黙って絵本を取り上げ、自分のかばんの中に入れた。
 マリーは不満そうにさくらを見上げたが、
「邪魔だろ。こんなの持ってたら」
 さくらは先んじて言った。
 マリーは何も言い返さなかった。もともと無口な少女なのだ。
『………とおいの?』
「電車に乗る」
『でんしゃ? ……』
 さくらはこたえなかった。
 彼はまだ年若の少年だったが、百聞は一見に如かずという言葉の正しさを知っていた。
 マリーは小さく呟いた。
『さくらがいるから、だいじょうぶね』
 さくらは何も言わなかった。




 館内に入ってすぐ、さくらはパンフレットを開き、ショーの時間をチェックした。
「おい、イルカとペンギン、どっちがみたい」
 今からでは、どっちかしか見られそうにない。
『………』
 マリーは虚空を見つめ、思案にふけった。
 さくらはじっと待った。
 中年の男性が彼女を通り抜けていこうとするのを、さりげなく身体を動かして妨害した。
『どうちがうの?』
「イルカは哺乳類、ペンギンは鳥」
『おさかなはいないの?』
「……魚のショーはないな。お前、ショーに興味ねえのか?」
『ううん……』
 マリーは首を横に振った。光を透かす金髪がさらさらと揺れる。
『わかったわ……。ショーをみるのね。……なら、とりがいいわ……』
 見たくないなら見なくていい、とさくらは言いかけたが、やめた。
 多分、マリーは水族館を知らないのだ。
 想像もできないのに、見たいとか見たくないとか、そういうことは言えない。
「こっちだ」
 さくらは歩きだした。マリーはそのすこし後ろをついて歩いた。シャーロットを両手で抱き締めて。




『ふしぎね……とてもきれい』
 マリーがはじめて足を止めたのは、深海魚のコーナーだった。
 さくらはマリーに付き合って足をとめた。
 彼女がきれい、とあどけない口唇で評したのは、よくわからない長ったらしい名前のついた貝類の一種だった。
 曲がりくねった貝殻と、うごめいている触手。種類としては、オウムガイに似ている。
 「ふしぎ」はともかく、これのどこが「きれい」なのか、と、さくらは首をひねった。
 けれど、少女の興味は尽きることがないらしい。
 じっと、その水槽から動かない。
『みて、シャーロット。このこ、とてもきれいな目をしているわ』
 目?
 さくらは腰をかがめて水槽に顔を近づけた。
 暗い深海を模した水槽のガラスにうつりこんだ自分自身、その奥にたゆたう深海の生物。
 確かに目が合った。生涯光を知らない生き物の、暗い、昏い目と。
「………」
『さくらも、みる?』
 マリーは少し身体を動かして、さくらのために場所を譲った。
「………ああ………」
 歯切れ悪く返事をした。
『さくらは、このこが、きらい?』
 マリーはたどたどしい口調で、けれども輪郭のくっきりした言葉を呟く。
 その目に自分が写っているのをみた。
 深海魚のように明るいところを嫌う彼女の。
 計り知れない大きな闇と。
「………まあ、嫌いじゃねーな。嫌いっつーか……珍しい」
『そう……そうね』
 こういうところじゃなきゃ見られないわ、とマリーは言った。
 彼女の視線は深海魚に戻っていたが、さくらはじっとマリーを見下ろしていた。





 さくらはゆきと日野家のためにお土産を買った。
 イルカの形をしたクッキーと、魚柄のきんちゃくに入ったキャンディだ。きっとこれを持っていけば、紳士が紅茶をいれるだろう。
 レジに並んでいるとき、レジスターの前に小さなバスケットが置いてあった。小瓶が並べられている。
『これはなに? さくら』
「ああ、星の砂だ」
 さくらは本物を見たことがあった。やたら旅行に行く家風のせいだ。
 沖縄の海でそれをみたのだ。持って帰ってはいけないと言われたが、もともとそのつもりもなかった。
 ただの砂じゃないか、という気がした。
 ありふれていて、特に何の価値もないもの。
 水族館に並べられたその商品には、小さな白い珊瑚も入っていた。
『ほし……』
 マリーがぽつりと反芻した。
 マリーが一つのものを見続けるのは珍しい、とさくらは思った。
 さっき、ぐるりと店を巡回したときは(ひょっとしたら欲しがるかとおもった)ぬいぐるみの類にも小物の類にも、ちっとも興味を示さなかったのに。
 ゆきはオレンジよりりんごがすきよ、だからりんごあじのキャンディがいいわ。と言っただけで、彼女自身は何かをほしがるそぶりすらみせなかったのに。
「………」
 さくらは星の砂の入った小瓶を適当にひとつ選ぶと、それをクッキーと一緒に店員に渡した。
「おまえのおみやげ」
 振り返って、マリーに言うと、
『ありがとう、さくら』
 マリーはシャーロットを抱えて、すこし頬を染めた。
『さくらは、私の欲しいものがわかるのね』
「誰でもわかるさ」
 つっけんどうに言うと、マリーはどうして? と言った。
『だって、私はさくらの欲しいものがわからないわ』
「………」
『言って。さくらは、何が欲しいの?』
 商品が入った袋を受け取って、振り返る。マリーは真っすぐにさくらを見つめていた。
 さくらの返事を待っていた。
 何が欲しいんだろう、とさくらは思った。
 大体のことにおいてすぐ答えを発見できるさくらは、悩むということをしない。
 だから、戸惑いは深かった。



(俺が、何が欲しいのかって?)
(本当は、何が欲しいのかって?)



 マリーの言葉が、頭のどこかに沈んでいくのを感じる。井戸に投げ込まれた石のように。
 波紋を残して消えていくが、それはどこかに必ず残る。
 その井戸にはきっと、マリーの顔が映っている。………。



 帰りの電車は空いていた。
 横に二人で並んで座る。
 マリーは、星の砂が詰まった小瓶を宝物のように大切そうにもっていた。
『きれいね。……これ、どうやってつくるの?』
「つくるんじゃない、そういう砂なんだよ」
 マリーは不思議そうに目を丸くしたが、そうなの? とは言わなかった。
『……中に入っている、この白いのは、何かしら』
「それは珊瑚だ。珊瑚の骨」
『骨?』
「珊瑚は生き物だから、死んだらそういう白い骨になるんだ」
『珊瑚も死ぬの? 私みたいに』
 マリーは生気に濁らない瞳をさくらに向けた。
「珊瑚も死ぬさ。俺みたいに」