瞳に未来を
「豪炎寺?…豪炎寺じゃないか!どうしたんだこんな時間に…」
「………二階堂…監督?」
自宅マンションのエレベーターを降りて。
エントランスを出たところまでは覚えているのに…
「イナズマジャパンのエースストライカーが、こんなところでボーっとしていていいのか?」
呆然としている自分に、以前と変わらない笑い声と掌が触れる。
いつも練習していたグラウンドでそんな監督と接していると、まるで時間が巻き戻ったかのような錯覚を覚えた。
『 瞳に未来を 』
「武方から聞いたぞ。随分強くなったんだな、豪炎寺」
立ち話も何だから・と明るく笑う彼に久しぶりに木戸川の部室へ招き入れられ、ロッカー前のベンチへ並んで座った。
そういえば自分はあまり部室に居たことが無かったなと、ぼんやりと思う。
あの頃は時間さえあれば練習をしていた。
雷門へ行ってからのように皆でミーティングをしたり、下らない話で盛り上がったり、時には皆でテスト勉強をしたり。
木戸川での自分に、そういった思い出が殆ど無いことを…今さらながら思い知る。
ネオ・ジャパンの一員として闘った武方はあの試合の後、監督とここでそんな話をしたのだろうか。
監督は、どんな風にその話を聞いていたのだろう…。
「監督…」
「…まだ、『監督』って呼んでくれるんだな」
「あ…」
「いや、悪い。責めてるわけじゃなくて…ちょっと嬉しかったんだ。あの豪炎寺が国の代表としてFFIで闘っていて…それなのにまだ、自分のことを『監督』と呼んでくれるのが」
「二階堂監督…」
「本当に、お前は凄い奴だよ」
フワリと、大きな掌が頭を撫でる感覚が擽ったい。
あの頃は当たり前のように思っていたその行為が、自分でも驚くほどの嬉しさをもたらす。
毎日サッカーをして、サッカーのことだけを考えていた日々がここには染み付いていて…
その嬉しさに、こんなにも胸が締め付けられる日が来るとは思っても居なかった。
「おっとゴメンな、痛かったか?」
眉をひそめたことを勘違いした腕が離れて行くのを、強引に掴んで引き止める。
やめないで欲しい。
あの時の自分が居なくなってしまわないよう。
もっと、ここに繋ぎとめておいて欲しくて。
「やめないで下さい…」
「豪炎寺…?」
不審がる監督の瞳を、何も言えないままただ見つめ返すことしか出来ないけれど。
どうして自分がここへ来てしまったのか、今ならばはっきりと分かる。
(サッカーのことだけを考えていられた日々が懐かしかったからだ…)
でも、もう戻れない。
毎日は素知らぬ顔で通り過ぎて行き、アジア予選決勝はもうそこまで迫って来ている。
「オレは、こうしてあなたに頭を撫でて貰うことが…とても好きだったんです」
もっと大事にすれば良かった。
教え子でも無く、サッカーも辞めてしまえば…もう二度と、この手が心地よく頭を撫でてくれることは無いのだ。
そんなことに、今になって気が付くなんて。
「いつも色々なことに、気付くのが遅い………」
円堂。
本当に、お前の言う通りだ。
「…『遅い』ことなんて、何一つ無いだろう?」
「監督」
豪炎寺の指をやんわりと解き、自分よりも小さなその手を握り締めて微笑む。
あやすように両手でポンポンと撫でられ、強張っていた指先から徐々に力が抜けていく。
「お前はいつだって自分で考え、自分の足で歩いて行くから…人より少し、時間のかかることもあるかもしれない」
昨年のFF決勝のこと。
妹のためと自分に言い聞かせてサッカーをやめ、雷門へと転校したこと。
何一つとして監督に相談することもなく決めてしまった過去を思い出す。
責められているのかもしれないと一瞬の不安に囚われたが、大きな掌の温もりと笑顔が、そうでは無いと告げていた。
「そうやって豪炎寺の選んだ道は、確実に未来のお前の笑顔に続いているじゃないか。先生は、この前の雷門との試合でそれを実感したから…そう自信を持って言えるよ」
「未来の…笑顔………」
「早いとか遅いとか、そういうことは問題じゃないだろう。お前がちゃんと自分で考えて出した結論だっていうことに意味があるんだ」
この先の未来で、今以上に笑顔で居られる日なんて来るのだろうか。
サッカーがあって家族が居て…仲間が居て。
その全てを持たず、遠く知らない場所へ行こうとしている自分に。
サッカーを手放すことは、サッカーによって得た全てを手放すことと…同じなのだ。
そこはこの木戸川の部室と、一番かけ離れた場所になるのだろう。
(監督を、『監督』と呼ぶことも出来なくなるのかもしれない………)
そんな豪炎寺の不安を見透かしたよう。
見上げた先で、猫のような瞳が柔かな笑みを形作る。
「苦しくても悩んでも、決して逃げずに立ち向かうお前の『監督』で居られたことは、俺の誇りだ」
「二階堂監督…」
「…でもな」
「?」
握り締めていた掌を離して、今度は両肩を掴まれたままグルリと身体の向きを変えられる。
隣から正面へと移った監督の顔から微笑みは消え、代わりに、痛いくらい真っ直ぐな視線が突き刺さるように注がれた。
「辛い時に『辛い』って、言葉にすることも覚えなきゃダメだ。それはきっとお前だけじゃなく、周りの人も笑顔にしてくれるから」
そう言って自分を見下ろす監督の方が、余程辛そうな表情をしている。
掴まれた肩が痛くて、熱い。
その真剣な眼差しの中。
ひどく頼りない顔をした自分が映っていることに気付いてしまい、豪炎寺は瞳を揺らした。
「お前には、笑顔で会いに来て欲しいよ」
サッカー以外のことを知らなかった過去の自分の欠片が、この場所には散らばっている。
それは確かに自分だったのに、どうしてもその時の気持ちを鮮明に思い出すことが出来ない。
様々のことを知れば知る程、比較対象を得た自分の中でサッカーという存在は輝きを増して行って…
手放そうとする今、眩暈がするほどの眩しさで身動きを封じてしまう。
「…いつの間にか豪炎寺は、こんなになるほど大切なものを沢山見つけていたんだな」
「大切………?」
「あぁ。大切だから嬉しくて、その重さに苦しくもなる」
「…監督も、苦しくなることがあったんですか…?」
「勿論だ。好きなら好きなだけ、大切なら大切なだけ。苦しくてたまらなかった」
「…その気持ちは、その後どうなったんですか?」
「………まだ、ここにあるよ」
肩に置かれていた大きな右手に左腕を取られ、懐かしいジャージの胸元へ導かれる。
「無くなったりはしない。ずっと、一緒に生きて行くんだ」
「ずっと…」
「…先生は、豪炎寺のそれを全部引き受けてやることは出来ないけれど………」
自らの胸元へ引き寄せていた左腕と一緒に、今度は豪炎寺の左胸へ触れながら。
「お前がその重みにつぶされそうな時、この手で支えてやることは出来る。いつもみたいに真っ直ぐ、お前が自分の未来を選び取れるように」
「…でもそれだと、オレは監督にして貰うばかりです………」
「そんなことは無いぞ。お前が笑っていることが、先生の幸せだ」
「わっ…!」