アイタイ
『好き』
卒業式の済んだ校内では、いたるところで同じ言葉が繰り返されていた。
他の奴らが来る前に。
自慢の身軽さで人の輪を抜け出して、野球部の部室にこっそり滑り込こんだ。
アイツは絶対ここに来るから。
三年間、ずっと見てきたんだ。この読みは外れない。
自分の達の使っていた棚には、もう二年生の荷物が置かれている。アイツの使ってた場所を見上げると、やっぱり二年生が乱雑にシャツを突っ込んでいた。
自分の知っているそこは、いつも誰よりもキレイだった。
そんなことで、ここはもう自分達の場所じゃないんだと知らされる。
薄暗い中しばらく佇んでいたら、開いたドアから冷たい空気が入ってきた。
「田島?」
やっぱり来た。
「お前もここに居たのか」
懐かしそうな顔で、アイツは自分の場所だった所に触れた。
「鍵が開いてたから…お前かと思ったら、やっぱりそうだった」
大人びた笑顔を向けられて、心臓がガンガン動き出す。
みんなが来る前に言わなきゃと、一歩詰め寄った。
「オレ、花井が好きなんだけど」
自分より10センチ以上高い所を見上げて、相手の反応を伺う。
結局追いつかなかった身長。
そして…。
ゴンと言う音と共に、田島は床で目を覚ました。
ぼんやりと天井を眺めて、ここが自分の所属する球団の寮だと思い出す。
寝相の悪い田島だが、寝ている間も絶妙なバランス感覚で、ベッドから落ちた事はめったにない。
落ちるのは決まって、あの夢から逃げ出す時だ。
「はぁ…」
ため息をついたところで、まだ起床時間まで余裕はある。
しかし、寝直す気にはなれずに、ぐしゃぐしゃになったままのベッドに寄りかかった。
手慰みに携帯をぱかりと開けたが、新しいメールは無い。
もう何度も繰り返して、見なくてもできるようになったフォルダを開く。
フォルダのタイトルは『花井』
そこには、定期的に来る西浦OB宛の連絡が並んでいた。
全てが同報発信で、田島一人に宛てたものは卒業以来ない。
それを良いことに、飲み会の誘いも全部返事をしなかった。
せめて断りの返事くらいしようかと何度も思ったが、最後に部室で見た花井の困った顔がちらついて、結局文字が打てないのだ。
それなのに、花井からのメールを消せないでいる。
「いい加減諦めたらいいのに」
嘲るように呟いて、携帯をベッドに放り投げた。
切り替えろ。
今日は先発だ。
「オレさぁ、コレするときが、一番ワクワクする」
バッティンググローブをしっかりと指の股に合わせて、ちょっときつめにテープを止める。拳を握ったり開いたりして馴染ませていたら、花井も同じ仕草で笑った。
「それ分かるな。なんか気が引き締まるよ」
攻撃の要となる二人だから通じる空気に、ニカっと笑ってみせると、少し照れたように花井が背中を叩いてくれた。
「さぁ、打って来い」
その瞬間から、田島のリラックスアイテムはバッティンググローブになった。
そして、西浦高校最後の夏。
田島は花井に手袋を差し出した。
「ユニフォームじゃねぇけど、かえっこしようぜ」
それは、共に戦った打者に捧げる、最高の賛辞だった。
それから二年。
満員の球場で、あの夏と同じ仕草を、田島は繰り返した。
ぎゅっぎゅっと音を鳴らして、しっかり手に馴染ませる。
今日は、球がよく見える。
―――さぁ、打って来い
すぅっと頭の中に風が通った。
空に抜ける快音を響かせて、白球は観客席に飛び込んでいく。
プロ入りして二年目の初夏。
田島悠一郎、初の本塁打だった。
「ナニコレ、ブサイク! あんがとっ!」
球団のマスコット着ぐるみからもらったホームラン記念のぬいぐるみを、誇らしげに突き上げて田島は観客席に手を振った。
出迎えてくれた先輩たちにもみくちゃにされ、ようやくベンチに戻れる。
プロ入り後も、打率は好成績を保持してきたが、小柄な体のせいで本塁打を打つことができずに初年度は終わった。
だが、本格的なトレーニングのおかげで、筋力はずっと上がり、少しずつだが身長も伸びている。男の子は二十五歳くらいまでは伸びるよと言う、志賀教諭の言葉は本当だった。
理想とする身体には、まだ遠い。
それでも、今日の本塁打は、一つ進んだ証だった。
試合後にスタッフに呼び止められ、田島の打った球を渡された。
普通なら取った人のものになるのだが、田島が初ホームランということで回収して来てくれたらしい。
「お前、無くしそうだなぁ」
「そんなことないっすよ…タブン」
先輩に笑われたが、言い返す言葉に力がない。
「家に置いてこようかな」
「そうしとけ。寮だと部屋替えもあるし、マジで無くすぞ」
うっすと頷いて、バッグに押し込んだ。
寮に戻るバスの中では、ひっきりなしにメールが来た。
筆不精な阿部までが送って来たことに、思わず噴き出す。
相変わらずそっけなく、「初ホームランおめでとう」の一言だったが、見ていてくれたんだなって思うと胸が熱くなった。
一通ずつ見ているそばから、メールがどんどん送られてくる。
「え? もしかして全員見ててくれたのか?」
そういえば、今日は先発だと三橋にメールしたので、みんなに連絡してくれたのかもしれない。その三橋からメールが来たのは、最後だった。
きっと、あのたどたどしい手つきで、一文字ずつ丁寧に打ったんだろう。今は阿部と同じ大学で野球を続けているはずだ。
未読メールを一つずつ開けては、来るはずの無い名前を探してしまう。
見てなくたって、あいつのハハオヤなら絶対見てて、教えてくれると思うんだけどな。
二桁も半ば近くなったメールに疲れて、途中から返事を諦めた。
自室で道具の手入れをしながら、たまにまとめてチェックする。
みんな祝ってくれて嬉しいんだけど…。
「なんでメールくれねんだよ」
全員くれたんだぜ。
お前主将なんだから、送るの当たり前じゃねぇの?
誰かアイツに言ってやってよっ!
どれだけ携帯を睨みつけても、待っている曲は鳴らない。
「あいたいよぅ…」
こぼれでた自分の声に堪えきれず、グローブがゆがんで見える。
「やべ…」
慌てて拭きとって、静かに呼吸を整えた。
あと二試合あるんだから、今はまだダメだ。
移動の無い日には、一日くらい実家に帰れる。その時に、この気持ちにも切りをつけてこよう。
久しぶりの実家は、末っ子の凱旋で盛り上がっていた。
本人そっちのけで、宴会の準備が進んでいる。家を出た兄弟だけじゃなく、親戚まで呼んでの祝宴になったらしい。
こうなると、つまみ食いしかしない末っ子は邪魔にされるだけだ。
「お母さん、オレちょっと西浦見てくる」
夜のご馳走の為にと、台所にこもっている母へ声をかけた。
「晩ご飯までに帰って来なさいよ」
「分かってる〜っ」
田島はニヤリと笑って、西浦高校の野球帽を目深に被りなおした。そして二年振りに袖を通した練習着。
気分だけはあの頃のまま、ちわっすと挨拶をして入り込むと、早速用具庫を開けた。
懐かしいトンボを担いで、グラウンド整備を始める。
卒業式の済んだ校内では、いたるところで同じ言葉が繰り返されていた。
他の奴らが来る前に。
自慢の身軽さで人の輪を抜け出して、野球部の部室にこっそり滑り込こんだ。
アイツは絶対ここに来るから。
三年間、ずっと見てきたんだ。この読みは外れない。
自分の達の使っていた棚には、もう二年生の荷物が置かれている。アイツの使ってた場所を見上げると、やっぱり二年生が乱雑にシャツを突っ込んでいた。
自分の知っているそこは、いつも誰よりもキレイだった。
そんなことで、ここはもう自分達の場所じゃないんだと知らされる。
薄暗い中しばらく佇んでいたら、開いたドアから冷たい空気が入ってきた。
「田島?」
やっぱり来た。
「お前もここに居たのか」
懐かしそうな顔で、アイツは自分の場所だった所に触れた。
「鍵が開いてたから…お前かと思ったら、やっぱりそうだった」
大人びた笑顔を向けられて、心臓がガンガン動き出す。
みんなが来る前に言わなきゃと、一歩詰め寄った。
「オレ、花井が好きなんだけど」
自分より10センチ以上高い所を見上げて、相手の反応を伺う。
結局追いつかなかった身長。
そして…。
ゴンと言う音と共に、田島は床で目を覚ました。
ぼんやりと天井を眺めて、ここが自分の所属する球団の寮だと思い出す。
寝相の悪い田島だが、寝ている間も絶妙なバランス感覚で、ベッドから落ちた事はめったにない。
落ちるのは決まって、あの夢から逃げ出す時だ。
「はぁ…」
ため息をついたところで、まだ起床時間まで余裕はある。
しかし、寝直す気にはなれずに、ぐしゃぐしゃになったままのベッドに寄りかかった。
手慰みに携帯をぱかりと開けたが、新しいメールは無い。
もう何度も繰り返して、見なくてもできるようになったフォルダを開く。
フォルダのタイトルは『花井』
そこには、定期的に来る西浦OB宛の連絡が並んでいた。
全てが同報発信で、田島一人に宛てたものは卒業以来ない。
それを良いことに、飲み会の誘いも全部返事をしなかった。
せめて断りの返事くらいしようかと何度も思ったが、最後に部室で見た花井の困った顔がちらついて、結局文字が打てないのだ。
それなのに、花井からのメールを消せないでいる。
「いい加減諦めたらいいのに」
嘲るように呟いて、携帯をベッドに放り投げた。
切り替えろ。
今日は先発だ。
「オレさぁ、コレするときが、一番ワクワクする」
バッティンググローブをしっかりと指の股に合わせて、ちょっときつめにテープを止める。拳を握ったり開いたりして馴染ませていたら、花井も同じ仕草で笑った。
「それ分かるな。なんか気が引き締まるよ」
攻撃の要となる二人だから通じる空気に、ニカっと笑ってみせると、少し照れたように花井が背中を叩いてくれた。
「さぁ、打って来い」
その瞬間から、田島のリラックスアイテムはバッティンググローブになった。
そして、西浦高校最後の夏。
田島は花井に手袋を差し出した。
「ユニフォームじゃねぇけど、かえっこしようぜ」
それは、共に戦った打者に捧げる、最高の賛辞だった。
それから二年。
満員の球場で、あの夏と同じ仕草を、田島は繰り返した。
ぎゅっぎゅっと音を鳴らして、しっかり手に馴染ませる。
今日は、球がよく見える。
―――さぁ、打って来い
すぅっと頭の中に風が通った。
空に抜ける快音を響かせて、白球は観客席に飛び込んでいく。
プロ入りして二年目の初夏。
田島悠一郎、初の本塁打だった。
「ナニコレ、ブサイク! あんがとっ!」
球団のマスコット着ぐるみからもらったホームラン記念のぬいぐるみを、誇らしげに突き上げて田島は観客席に手を振った。
出迎えてくれた先輩たちにもみくちゃにされ、ようやくベンチに戻れる。
プロ入り後も、打率は好成績を保持してきたが、小柄な体のせいで本塁打を打つことができずに初年度は終わった。
だが、本格的なトレーニングのおかげで、筋力はずっと上がり、少しずつだが身長も伸びている。男の子は二十五歳くらいまでは伸びるよと言う、志賀教諭の言葉は本当だった。
理想とする身体には、まだ遠い。
それでも、今日の本塁打は、一つ進んだ証だった。
試合後にスタッフに呼び止められ、田島の打った球を渡された。
普通なら取った人のものになるのだが、田島が初ホームランということで回収して来てくれたらしい。
「お前、無くしそうだなぁ」
「そんなことないっすよ…タブン」
先輩に笑われたが、言い返す言葉に力がない。
「家に置いてこようかな」
「そうしとけ。寮だと部屋替えもあるし、マジで無くすぞ」
うっすと頷いて、バッグに押し込んだ。
寮に戻るバスの中では、ひっきりなしにメールが来た。
筆不精な阿部までが送って来たことに、思わず噴き出す。
相変わらずそっけなく、「初ホームランおめでとう」の一言だったが、見ていてくれたんだなって思うと胸が熱くなった。
一通ずつ見ているそばから、メールがどんどん送られてくる。
「え? もしかして全員見ててくれたのか?」
そういえば、今日は先発だと三橋にメールしたので、みんなに連絡してくれたのかもしれない。その三橋からメールが来たのは、最後だった。
きっと、あのたどたどしい手つきで、一文字ずつ丁寧に打ったんだろう。今は阿部と同じ大学で野球を続けているはずだ。
未読メールを一つずつ開けては、来るはずの無い名前を探してしまう。
見てなくたって、あいつのハハオヤなら絶対見てて、教えてくれると思うんだけどな。
二桁も半ば近くなったメールに疲れて、途中から返事を諦めた。
自室で道具の手入れをしながら、たまにまとめてチェックする。
みんな祝ってくれて嬉しいんだけど…。
「なんでメールくれねんだよ」
全員くれたんだぜ。
お前主将なんだから、送るの当たり前じゃねぇの?
誰かアイツに言ってやってよっ!
どれだけ携帯を睨みつけても、待っている曲は鳴らない。
「あいたいよぅ…」
こぼれでた自分の声に堪えきれず、グローブがゆがんで見える。
「やべ…」
慌てて拭きとって、静かに呼吸を整えた。
あと二試合あるんだから、今はまだダメだ。
移動の無い日には、一日くらい実家に帰れる。その時に、この気持ちにも切りをつけてこよう。
久しぶりの実家は、末っ子の凱旋で盛り上がっていた。
本人そっちのけで、宴会の準備が進んでいる。家を出た兄弟だけじゃなく、親戚まで呼んでの祝宴になったらしい。
こうなると、つまみ食いしかしない末っ子は邪魔にされるだけだ。
「お母さん、オレちょっと西浦見てくる」
夜のご馳走の為にと、台所にこもっている母へ声をかけた。
「晩ご飯までに帰って来なさいよ」
「分かってる〜っ」
田島はニヤリと笑って、西浦高校の野球帽を目深に被りなおした。そして二年振りに袖を通した練習着。
気分だけはあの頃のまま、ちわっすと挨拶をして入り込むと、早速用具庫を開けた。
懐かしいトンボを担いで、グラウンド整備を始める。