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アイタイ

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 ちらほら来始めた部員に、素知らぬ顔で頭を下げる。会った事の無い一年生は田島と気づかずに整備に加わって来た。
「ちわっ!」
 部員の張り詰めた挨拶に顔を上げると、綺麗な黒髪が風になびいていた。
 百枝だ。
 よし、まだバレてないとほくそえむ。
「集合〜っ」
 主将の声にこっそり最後尾に紛れ込むと、誰って声がヒソヒソ聞こえてくる。
「お願いしあーっす!」
 主将の掛け声に、全員が揃って頭を下げる。
 帽子を取ってそれに倣った田島と目が合って、百枝が目を点にしている。
「ちーっす! カントクお久しぶりぶりです」
「田島君? 何やって…あはははは」
 突然の伝説のOBの登場に、後輩達が口をパクパクさせている。
「家に来たんで、アイサツに来ましたーっ」
 けろりと言い放った田島に、百枝が満面の笑みを浮かべた。
「田島君、初ホームランおめでとう」
「おめでとうございますっ」
「田島先輩、なんでそのカッコなんですかっ」
 我に返った後輩達も、口々に祝いとツッコミをいれてくる。
 ここにアイツがいたらな―――と、罰当たりな事を考えつつ、もう一度頭を下げた。
「あざーっす」
「今日はゆっくりできるの?」
「エンカイするらしいんで、バンメシまでに帰れって」
 居なくても、あの人達は多分はじめちゃうんだろうけど。
「みんな頑張ってるよ。練習見ていってあげて」
「ハイ! その前にそのへん見てきていいっスか?」
 バレてサイン攻めに合わないようにねと笑って、百枝は部員達にストレッチを指示した。
 言われた通り、また帽子を深く被り直して、校内をぶらぶら歩く。
 卒業から一年しか経っていないのに、ひどく懐かしく感じる。
 校内を抜け、プールの横を下りると、部室棟は変わらぬままだった。
 野球部の扉には見覚えのある鍵が掛かっている。
 番号は871―――花井のままだ。
 少し錆びて、動きにくくなったそれを回すと、カチャリと音を立てて錠がはずれた。
 懐かしい、湿気に混じるかび臭さは、高校時代を思い出させる。
 目を閉じれば、あの頃のみんなの姿が浮かんでくる。
 そして、花井。
 ずっと待ってたけど、アイツは来なかったことにしてしまおう。
 あの時の告白も、花井の言葉も。
 そしてオレはこの部屋を出て、プロになって、たまにある同期との飲み会に参加して。
 また話せるようになれるかな。
 最後に大きく息を吐いて、目を開けた時、ロッカーの上に薄いニットの塊を見つけた。
 よく似た柄なのかもと摘み上げたが、この帽子はふざけて被った覚えがある。
―――まさかね。
 戻そうとした時、ノックと同時にドアが開いた。
「ちっす。やっぱりここに忘れてたか」
 すらりとした長身に、あの頃より少し低くなった声。
 花井?
 なんで?
「わりぃ、それ俺の帽子…」
 土間から伸ばされた手に、帽子を渡すことができない。
「もう始まってるだろ? 行かなくていいのか?」
 反射的に帽子のつばを下げた田島に、花井が不審そうな声を出して靴を脱いだ。
「…お前、野球部だっけ? 誰だ?」
「誰って、ひどくね?」
 薄暗い中、帽子で顔を隠しているとはいえ、気がつけよと口を尖らせる。
「え? まさかお前…」
 乱暴に野球帽をはぎ取られて、田島は挑戦的に見上げた。
「…たじ…ま?」
 嫌な沈黙が流れる。
 耐え切れずに口を開いたのは、田島が先だった。
「帽子…」
「あ…ありがと」
 後輩ができてからは、少々のことで動じなくなっていた花井だったが、相変わらず突然のことには弱いらしい。困惑が全部顔に出ている。
 それが少しおかしくもあり、悲しくもあり。顔を見られたくなくて、帽子を深く被りなおした。
 再び訪れた沈黙を破ったのは、ドタドタと走ってくる靴音と、壊れそうな勢いでドアを開けて飛び込んできた後輩たちの叫びだった。
「急げよっ! 田島先輩来てるって!」
「うぉっ、花井先輩ちわっス! 今、グラウンドに田島先輩も来てるみたいっスよ!」
 興奮した後輩たちに、思わず花井と顔を見合わせる。
「グラウンドじゃなくて、ここにいるけど、お前ら早く着替えろ」
 固まった後輩たちに、田島は笑って怒鳴った。
「えええっ」
「ほら、急げ」
「はいっ」
 笑いながらの元主将の一喝に、反射的に服を脱ぎだした後輩たちに少し感謝する。
「花井も練習見てくのか?」
「ん…あぁ、おとつい来たばっかりだけど、これ取りに来たんだ」
「それじゃ、一緒に行こうぜ。大学生暇なんだろ」
 ニカっと笑うと、釣られたのか暇じゃねーよと、昔みたいにこづかれる。
「お前行くなら、俺も行くかなぁ…ほら、お前ら、こっち気にしてねーで走れっ」
「はいっ」
 最後に見たときより、また少し逞しくなった花井に少し見とれる。相変わらず、理想的な体つきだ。
 背が高くて、手足も長くて大きい。シンプルなカットソーとスラックスの上からでも、鍛えられていることがよく分かる。それでいて、花井の好んで着るオフホワイトが、すっきりとした印象を際立たせている。
「ほら、みんな待ってるぜ。俺らも行こう」
 ばたばたと飛び出していった後輩たちを見送って、花井が靴を履く。
「あ〜そうだ。…初ホームラン、おめでとう」
「なんだ、知ってたんだ。お前だけだぞ、メールくれなかったの」
 頬を膨らませて背中を軽くけっとばしたら、花井の背中がぴしっと固まった。
「う…送ろうと思って書きかけたんだけど、うまくまとまんなくて保存したら、そのまま送信しそびれたんだよ…」
「ナニソレ! じゃあ、それ今送ってよ」
「後でな。ほら、早く出てこないと、鍵かけるぞ」
「わ、待って」
 こんなじめっとした所に閉じ込められたら、練習が終るまでにカビが生えそうだと、慌てて飛び出す。
「それ、花井のままだな」
「お前ら、俺をいじりすぎなんだよ。あいつらも、いい加減変えりゃいいのにな」
「そんだけシタワレてんだよ」
 迷惑だとぼやく花井と並んで、グラウンドへ続く道を歩く。
 また会話が途切れたが、もう嫌な空気ではなかった。
「カントクーっ! 花井も来ましたー」
 相変わらずいい音を響かせて、百枝のノックが飛んでいる。
「ちわっす。ノック代わります」
「花井君! 助かるわーっ」
 後輩を指導することには、誰よりも信頼の厚い元主将の姿に、百枝が弾んだ声を出した。
「オレもするー」
「お前、好きだねえ」
 ひょいと花井の先に回ってバットを受け取った田島に、花井が呆れた声をだした。
 そうは言っても、プロ選手のノックを受ける僥倖などめったに無い。百枝の正確な打撃を見てきた部員たちも、限界のぎりぎりを突いてくる田島の球に、感嘆の声を上げていた。
「調子良さそうだな」
 球を渡してくれる花井の笑顔に、澱んでいた気持ちが消えていくのが分かった。
 そして、途中で花井と交代して、そのスイングを見て分かった。
 プロ入りした自分とは違う道だが、花井はまだ野球を続けている。
 それが、ただ嬉しかった。
 そうやって二時間もするうちに、グラウンドの横から田島を呼ぶ声が聞こえた。
「ゆーう、そろそろおじさん達来たよー」
「わかったーっ」
 大きく手を振って返して、百枝のところに走っていく。
作品名:アイタイ 作家名:藤堂 蔦葉