ハツモノ
日常に起きた、ちょっとした変化。
たったそれだけでも、今まで見えていた風景が変わって見えたりして、頬の緩みを抑えられなくなってしまうものだ。
「なーにニヤニヤしてんのよ、クレス」
「うわっ!」
突然頭上から正面に、逆さまの状態でピンク色をした少女の顔が降って来た。降って来たと言っても「ぼとっ」と落ちてきたわけではなく、目と目が合う高さまで落下してきたと思ったらそのままの高さを維持してふわふわと浮いている状態なのだが。
仰け反ったクレスを見て満足そうにけらけら笑ってから、アーチェは乗っていた箒ごとグルっと反転し、浮いているという事実以外は重力の法則に沿った姿勢に戻った。
「い、いきなり何するんだよ」
「いきなりって、さっきから呼んでたのに返事しなかったのはクレスの方じゃん」
「ええっ?」
曲がりなりにも剣士である自分が人の気配や声に気付けなかったなんて、とクレスは一瞬愕然とする。これはかなり大問題だ……と思うのと同時に、はて、と、声を掛けてきたアーチェの言葉にやや引っ掛かるものを感じた。
「そ、それは、ごめん。……でも僕、ニヤニヤなんてしてないと思うんだけど」
「してたよー。もう嬉しくて嬉しくて仕方ないって位ニヤーってしてた」
「……」
思わず自分の頬に手を当てる。
今は緩んだ顔をしていない、はずだが、少なくとも先程まで自分の顔は他人から見ればみっともなく緩み捲くった顔をしていたようだ。
自覚が無かったのが、とんでもなく痛い。痛々しい。
「そんで、何かあったの? あ、仕事の給料がグッと上がったとか?」
「い、いや……別に、何も変わった事は無いから」
「ふーん? ……そういえば最近ミントも妙に嬉しそうにしてる事多いのよねー」
「!」
アーチェのその一言にどこまでの意味があったのかクレスには汲み取れなかったが、それとは関係なく、ほぼ条件反射のように、ボッと顔が火を点けたように熱くなってしまった。
「クレス?」
「な、何?」
「何はこっちのセリフだって。なんで顔赤くなってんの?」
「あ、赤くなってない!」
思わず出た虚勢。ああ今この場の空気が僕のせいで凍ったなと、鈍いクレスでも気が付いた。
無理のある嘘を吐いてしまったせいで、目を細めたアーチェの視線がとても受け続けたくないものに変わるが、次の瞬間、今度はアーチェが『ニヤー』っとした顔になった。
「ほうほう。クレスがニヤニヤしてた理由ってのは、ミントに絡んだ事なんだね」
「だ、だからニヤニヤなんて――」
「してたってさっきから言ってるじゃん」
「ぐ……」
何が何でも理由を聞かなければとクレスに迫るアーチェと、言葉を詰らせるクレス。数秒睨み合ってから溜息を吐いて折れたのはクレスの方だった。そもそもアーチェにしっかり外套を捕まれているせいで、逃げる術はとっくに失っている。
とりあえず落ち着いて話が出来る場所に移動しなくてはと、クレスはここから近い自宅へ行こうとアーチェに誘いかけた。
クレスがアーチェを自宅に招き入れた時、ミントは教会へ行っていて不在だった。
「はい、お茶。ミントみたいに上手くは淹れられないけど」
「ん、ありがと」
リビングのソファに座らせたアーチェのために紅茶と菓子をテーブルに置く。自分用の紅茶も置いてから、クレスはアーチェと反対側に置いてあるソファに座った。
「じゃ、改めて聞くけど。最近、何かあったの? まあミント絡みだってのはさっきの反応見て判ってるけどさ」
口には出さないが、それが深刻な悪い理由でなく、クレスや、そして恐らくミントにとって良い事であるのもアーチェは判っていた。でなければ、あんなに締まり無い表情をクレスが公衆の面前で晒すなどありえない。
「……アーチェやチェスターにはちゃんと言わなくちゃいけないなって思ってたんだけど……」
上手い言葉も考えられなかったのか、前置き無しで本題に入ろうとするクレス――だったが、緊張しているのか、喉が渇いて言葉が引っ掛かってしまったようで、咳払いを一つ溢す。慌てて飲み込んだ紅茶はまだ冷め切っていなくて、熱さに驚いたクレスが危うくティーカップを落としそうになった。
「……で?」
面白いには面白い光景なのだが先が気になることもあり、半笑いで先を促すアーチェ。
熱い紅茶を飲み込んでしまった口を手で押えていたクレスがこくこくと頷き、もう一度咳払いをしてから改めてアーチェに向き直った。
「……僕と、ミントなんだけど」
「うん」
頭を掻いて、息を大きく飲み込んで、これでもかと言うぐらい力強く真っ直ぐアーチェを見て。
「僕達、恋人として付き合う事になったんだ」
「……」
どこかで何となくそういう関係の話をされるんじゃないかとは予想していたのだが、いざ本人にきっぱりはっきり言われると、少し疑って掛かりたくなる。
なにせ、あのクレスとミントだ。昔からお互いに好き合っているのは誰の目にも明らかであったのに、恋愛に関しては奥手というか、悪く言ってしまえば意気地が無い性格のため、旅をしている間はそういう関係には至らなかった。もちろん、旅をしている間に色恋沙汰に現を抜かすわけにもいかないとも思っていただろうが。
そして旅を終えてからは半ば成り行きで同棲をしていたクセに、二人の関係は傍から見るとその頃からほとんど変わらなかった。こりゃ結婚するのにいつまで掛かるんだとか、むしろ死ぬまでこのままなんじゃないかとか、そんな半分どころか九割本気の軽口を、二人の共通の知り合いとしてチェスターと口にし合った事もある。
「えーと、マジ?」
「冗談でこんな事言うか!」
そんな事をぐるぐる思考していたら思いのほかマヌケな返事をしてしまったアーチェ。茶化すつもりはなかったのだが、これまでの二人の様子を考えると、やはりまず信じられないという感情が浮かび上がる。
とは言え、そんな冗談を言えるほど目の前の男は冗談というものに不慣れであるし。それらを考えた末に不信の感情を消し去ってみると、お節介ながらも安堵が素直に浮かび上がってきた。
「そっか……おめでと、クレス」
「あ、ありがとう」
一転して穏やかに笑ったアーチェにクレスは肩透かしを食らったが、硬かった表情が彼女につられてようやく解れた。