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ヘイディーズ

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 眇めた目に映るのは、追いつくどころか知らないうちに更に遠くへ行ってしまった背中だった。砂埃と血の混じる風が舞って、剣戟と矢が飛び交う中で、もう望美にはその背中以外は何も見えなかった。
(将臣くん!)
 心の中で叫んで、望美は走る。走って、刀を振るって、走って。息が乱れて声にはならないけれど、望美は力の限りに将臣の名前を呼んだ。でもまだ声は届かない。届かないから、彼は振り返ってはくれない。いつも遠くて嫌いだった背中は、それでも望美が名前を呼べば、立ち止まってくれた。振り返って、追いつくのを待ってくれたのだ。だから望美は走った。
 守られてばかりだった望美にも、今は守りたいものがたくさんあって、その中のひとつが将臣なのだ。たとえ、その将臣に刃を向けられるのだとしても、それだけは譲れない。ずるくて、懐かしくて、届かなくて、もどかしいその背中を、ずっと守りたい、という気持ちは祈りのような強さで望美の足を動かした。
 追いつかなければ届かない。叫んでも、腕を伸ばしても、届かないのならば意味がなかった。柄を握り締める手に力を込めて、かろやかに地面を蹴る。
(速く走る、けものになれればいいのに!)
 時々もつれそうになる足に舌打ちをして、それでも望美は失速しない。あとほんの少しの距離だ。懐かしくて、大嫌いで、本当は好きだった背中は、もうずいぶんと近くに見えた。

「どうした、還内府はここだ!」

 空気を震わせる叫びに、望美はゆっくりと足を止めた。ここには彼の声が届く。ここからはわたしの声が届く、そう思うと膝が震えそうになった。
 破裂してしまうのではないかと思うほど速く打つ心臓を押さえて、呼吸を整える。ずっと走り続けたせいで痛む肺に、深く息を吸い込んでから吐き出した。
(やっと、追いついた)
 手を伸ばせば届きそうな気がした。白い刀の柄を握り直して、望美は安堵のため息を吐く。それからはじめて、この腕が獣の肢ではなくてよかった、と思った。固い蹄では速く走れても、手を掴むことも、背中を抱きしめることもできない。

「誰か討ち取りに来る奴は居ねえのか!」

 目の前の背中が叫ぶのを聞いて、望美は刀を構える。
 その声しか聞こえない。心は張り詰めた水のように静かで、透きとおって、凪いでいた。
わたしはみんなを守るためにここにいる。
だからこの刀を振るうのは、全部を守るためだった。傷つけるためでも、傷つくためでもない。その覚悟だけがあれば、あとは心を揺るがすものなど何もなかった。
(将臣くん!)
 声には出せない叫びは、それでもきっとその背中には届いているはずだ。望美は走る獣にはなれなかったけれど、それでも傷だらけの両足で走って、そうして彼に追いついた。
 深く息を吸い込んで、望美は叫んだ。

「ここに――、ここにいる!」

 この手を伸ばしたって、まだあの遠い背中には届かない。けれど、白い牙のような刀を振り下ろしながら叫んだ声は、その背中をゆっくりと振り向かせた。
 見開かれた群青の目も、血の匂いの混じった風に揺れる前髪も、泣きたくなるほど懐かしい。

のぞみ。

 音にはならない声で名前を呼ばれて、望美はくちびるを噛み締めた。ぶつかった刃から火花が散って、てのひらが重く痺れる。刃はやはり曇りのない白さで煌いていた。
この手は刀を握っているから、伸ばして指を絡めることも、抱きしめることもできないけれど、わたしは――。
金属のぶつかる衝撃に足を踏みしめながら、刃の向こうにある将臣をじっと見据えた。こんなにも心は叫んでいる。嵐のような感情が頼りない身体の中を走って、それは合わせた鋼から、きっと将臣に届いているに違いない。涙がこぼれそうになるのを堪えて、望美は歯を食いしばった。

(あの日、離してしまった手を、取り戻したいだけなのに)

 そのために、わたしはここにいるのに!
作品名:ヘイディーズ 作家名:カシイ