市営住宅の真ん中の入り口の4階の右
マリカーの日
薄暗い階段を昇ると、踊り場の外には鳩が巣を作っていた。どうりで、どこもかしこも隙間にはネットが張ってある。市営住宅の住人たちは日照権を放棄してまで必死になっているというのに、じっと見つめても逃げ出しもせず、クルッポー、なんて鳴いている大空の住人は気楽なものだ。
最上階は、ますます暗い。向かい合わせに部屋のドアが並び、上を見上げれば、屋上へと続くのであろう鉄の戸がじっとローを見下ろしている。
『市営住宅の真ん中の入り口の4階の右!』
そうだ、右側の部屋だったよな、と思いチャイムを鳴らせば、はぁい、と初老の女性らしき声が返って来た。
「あのう、ぼく、ゾロ君の友達です」
「えっ……あ、ああ、ああ。ロロノアさんのお宅は、反対側ですよ」
インターホンから聞こえる声はコロコロと気さくそうに笑っているのだけれど、ローの頭からはサァと血が下っていった。恥ずかしいやら、申し訳ないやら。
「……あの、ごめんなさい」
慌てて、カメラもないのにローは頭を下げた。ドアの向こうで家主の女性が笑っている。
顔を真っ赤にしながら、ローは改めて向かいの扉のチャイムを押した。
『ゾロんちの母ちゃん、すげえんだぜ!』
――頬を上気させた同級生が、月曜に登校して早々ローの机まで駆けて言ったのは、そんなわけのわからない報告だった。麦わらのルフィ。常日頃からわからない奴だが、今日はますますもってわからない。週末に変なものでも食ったか。
「どういう意味だよ」
「すげえんだ……メシが、超うめえんだ」
はあ、とローが答えかね口をモゾモゾさせていると、ルフィの背後で他のクラスメートたちがちらほらと、「あ、知ってる!」とか「すげえよな!」とか騒ぎ始めた。そんなに有名なのか、ゾロの母ちゃん。
そのゾロはと言えば、HRまであと3分もないというのに影も形も見えない。おおかた今日も遅刻だろう。
「なあ、今日もゾロんち行きたいなァ」
「おう、行こうぜ行こうぜ。あいつ、日曜にマリオカート買うって言ってたしな」
「ローも行こうぜ! 4人対戦だから、コントローラー持ってこいよ。持ってるか?」
「持ってない」
「仕方ねえなあ。じゃあ、俺の2つ持ってってやるよ」
ルフィと、それにいつもルフィとつるんでいるウソップはそんなことを言って盛り上がっているのだが、当人の意思はまったく関係ないらしい。結局ゾロはそれから20分後に、反省の色を微塵もうかがわせずノロノロと登校してきたのだけれど、「今日ゾロんち行くからな!」というルフィの“報告”に、寝ぼけ眼で「ああ」なんて答えていたから、別に構わないのか。
メモリーカード持ってこい、とだけは付け加えていた。
*
どうぞォ、と聞き慣れない声と、それから一拍置いて、中で待ってて、と聞こえたので、ローは恐る恐るロロノア宅の扉を開けた。鍵は掛かっていない。無用心だ。
「おじゃま、します……」
ぷぅん、と、よその家のにおいがする。ロロノア家のそれは、少し柔軟剤の匂いと似ていた。
オボッチャンのローには想像もつかないくらい狭い玄関には、チョンチョンチョン、とサイズのそれぞれ違う靴が几帳面に並んでいた。ただ、小学4年生サイズの靴はないので、もしかするとルフィ、ウソップどころか、ゾロもいないのだろうか。
「悪いなァ、ゾロの友達だろ? あいつ使いから帰ってこなくてさ。さすがにもうすぐ戻ってくるだろうから、部屋で待ってなよ」
玄関で暫し呆然としていると突然声と足音が聞こえて、ローはびくりと震えた。来たことのない家というのは、どうしてこうも恐いのだろう。
「あ、ごめんな、みっともない格好で。さ、上がって上がって」
玄関から入ってすぐの扉から出てきたのは、Tシャツにジャージ、金色の頭にはタオルを被り、身体からは湯気を漂わせている――明らかに風呂上りらしき人物だった。
「あのう、誰ですか」
思わずローの口から漏れた無作法な質問に、その人物はブッと吹き出して、
「ゾロの母ちゃんだよ」
ゾロの母ちゃんは、風呂上りで、キンパツで、男だった。
風呂上りでキンパツで男なゾロの母ちゃんは、ローをリビングらしき部屋まで案内すると、そのまま自分も座布団の上に腰を下ろし髪にドライヤーをかけはじめた。ドライヤーがぶおおん、というののほかに、6畳間に音はない。
――お世辞にも、あまり広いとは言えない部屋だった。ローの家が少々広すぎるのだとしても、やはり狭い。元は6畳ほどであるはずの部屋には、テレビ、ちゃぶ台、ラック、コート掛け、ソファ、本棚、玩具等々が、インテリアの調和や洒落っ気を無視して、生活感溢れる感じに雑然と配置されている。
部屋の壁2面はふすまで出来ていて、片側はキッチンだ。玄関からこのキッチンを抜けてリビングに入るので、さきほどローも通った。もう片方の部屋はなんだかわからないが、寝室か何かだろうか?
先ほど玄関から見えたのは、ゾロの母ちゃんが出てきた風呂場のドアと、それにもう一つ部屋があって、べたべたとシールが貼られていたからきっとこれは子供部屋なのだろう。
「ごめんな、あいつ、もうすぐ帰ってくるから」
「いえ……あの、すいません、いきなり。それとこれ、家の者からです」
「こりゃまた、ご丁寧に。君、うちに来るの初めてだよな? 名前は?」
「ローです。ゾロ君とは、今年からクラスが同じで……」
「ああ、賢いロー君だ。聞いてる聞いてる。うちの馬鹿や連れのアホどもにも勉強教えてやってよ」
「はあ……」
ローは手持ち無沙汰に服の裾を弄って、ゾロの母ちゃんは髪を乾かしながら、そんなふうに2人は言葉を交わした。
ゾロの母ちゃんは、言葉はぶっきらぼうだけれど目元は優しい。言っていることもなんとなくガラが悪いけれど、どこか思いやりがある。足をあぐらにかいて上目遣いで金髪が揺れるのをぼんやり眺めながら、ローはそんなことを思った。色白で細身で眉がぐるぐると巻いていて、あまりゾロとは似ていない。
ローが退屈しないようにか、それとも自分が話したかっただけなのかはわからないが、ゾロの母ちゃんは主にゾロについていろいろなことを喋った。最近生意気になったこと。ゲームばかりしていること。父親(?)似だということ。靴をすぐドロドロにして帰ってくること。
それがまるで友達に話すようでローははじめ違和感を覚えたのだけれど、あんまり自然にポンポンと言葉が飛び出してくるものだからすぐに慣れてしまって、うんうんと頷くのだった。
「でな、この前の遠足のときも……」
そのときピンポン、と短くチャイムの音がして、ドアの方から「ただいま」という声、それにギャアギャアと騒ぐルフィやウソップたちの声が聞こえてきた。
「おいお前ら、もっと静かにできねえのか、近所迷惑だろ!」
玄関からの声に負けないくらいの大声で叫びながら母ちゃんは立ち上がって玄関に小走りで駆けて行って、おそらくはゾロに向かって「遅い」とか「友達を待たせるな」とか小言を言っていたのだけれど、そのときはじめてローは結構前にドライヤーの音が止まっていたことに気が付いた。ローに気を遣ってくれていたのだろうか。
作品名:市営住宅の真ん中の入り口の4階の右 作家名:ちよ子