市営住宅の真ん中の入り口の4階の右
「お、今日もサンちゃんがいる。そろそろチーママ就任?」
「まさか。ごめんね、年増がいて」
「何をおっしゃる。今日こそ一緒に飲もうよ」
「バーカ、サンちゃんは子持ち旦那持ちなんだよ」
「かー、旦那が憎いね」
「まーたそんなこと言って……もう酔ってんの?」
ケラケラ笑いながら煙草の火を消すと、「おすすめ定食みっつ」の注文に母ちゃんは再び調理場へと戻って行った。
(今日、結構客入ってんな……)
マスター夫婦と母ちゃんとは10年来の仲で、その出会いは母ちゃんがゾロを身ごもっていたころにまで遡る。身重ながら実家を出て、父ちゃんも警察学校に入っていたころ、母ちゃんはこの店で働いてなんとか生活の糧を得ていた。おまけにアパートの部屋も世話してもらい、しかも出産後は子連れでの出勤も許してくれた。いわばこの夫婦はロロノア家の恩人なのである。
父ちゃんが晴れて警察官となり母ちゃんは店を辞めたけれど、マスター夫人が子供を身ごもりあまり店に出られなくなったため、こうして助っ人として6ヶ月ほど前から調理要員としてカンバックしているというわけだ。
「あー、ほら、ちゃんと立って」
「サンちゃあん、旦那と別れて俺と結婚しよぉ」
「まーたそんなことを……」
銜え煙草で苦笑しながら、母ちゃんは飲みすぎて足腰の立たなくなった客の腕を引っ張り上げた。年の功というかなんというか、自然、こういう客のあしらいは母ちゃんに回ってくる。
「ほら、タクシー来たから」
「うー、またねぇ、サンちゃん」
「はいはい」
走り去っていくタクシーを見送って、フウ、と母ちゃんはひとつため息を落とした。
今日はうっかり子供たちにあんな姿を見せてしまったけれど、必要以上に心配はしていないだろうか。チビナスとゾロが家に帰って来たのは結局門限の5時近くなってからで、もしかすると気を遣わせてしまったのかもしれない。シフトは父ちゃんの帰宅が夕食前になる日に合わせて組んでもらっているが、特にチビナスには寂しい思いもさせていることだろう。
(もっとしっかりしなきゃなァ……)
ゾロやルフィ、ウソップも、あれで子供というのは繊細だ。特に最近遊び仲間に加わったローは小学生らしからぬ感じでしっかりしていて、今日も随分と心配そうにこちらを見上げていた。
(……今度来たときは、おやつを奮発してやるかな)
母ちゃんの育ての親――ゾロにとっての爺ちゃんに当たる人だが、彼が昔言っていた言葉がふと蘇る。
『どんなに貧乏しても、どんなに辛かろうと、食事には手を抜くな。家族だけじゃねえ、客にもちゃんとしたもんを振舞え。食い物のある家には、いつだって人が集まる。人が集まりゃァ、幸せも集まるってもんだ』
母ちゃんはその言葉を体現したかのような家で育ってきた。養い親に子ひとりという家庭だったが、思えばあまり寂しい思いをしたことはない。父ちゃんと出会ったのだって、突き詰めて考えればその言葉あってこそのことだ。
――で、実際今、結構幸せなわけで。
スゥ、と吹いた生ぬるい風に顔をしかめ、母ちゃんは急いで店の扉を開けた。もう店に残っているのは近所に住んでいる常連客ばかりだ。
「あ、サンちゃんもう上がっていいよ」
「え、でもまだ11時……」
「いいからいいから。赤髪さんもう腹いっぱいでしょ?」
「まァ、8分目ってとこだな」
「その辺にしときなよ、太るよ」
今日はゆっくり休みなよ、と言いながら、マスターはおもむろに母ちゃんの背後にある扉を指差した。
「それに、お迎え来てるし」
「……えっ」
振り向けば、見慣れた仏頂面が店に一歩足を踏み入れた状態で固まっている。
「よう」
「……ッ!」
瞬間、顔を真っ赤にして旦那の腹に思い切り膝を入れた母ちゃんに、狭い店内のそこかしこからヒューヒュー、と掛け声が上がった。
*
「チビに聞いた。疲れてんだろ。……後ろ乗るか?」
「コラ、警察官」
父ちゃんに軽く蹴りを入れながらも、じっと鳶色の目に見つめられて結局母ちゃんはおずおずと自転車の荷台に腰を下ろした。
「このまま引いてりゃ問題ねえ」
「……車で来れば良かったじゃねえか」
「酒飲んでた」
「じゃあ、自転車……」
「だから、引いてきたんだよ。行きも」
要するに、母ちゃんを荷台に乗せるために。
揺れる自転車からずり落ちないように父ちゃんの背中を片手でつかみながら、母ちゃんは、頼むからこのまま振り向いてくれるな、と心の中で必死に祈った。カア、と熱くなる頬は夜の闇で見えないはずだけれど。
「つ、つーかお前、チビたちはどうしたんだよ」
「もう寝てる」
「チビナスが起きてぐずりだすかも……」
「そのための兄貴だろ。あいつも男だ」
その言葉に、母ちゃんはふと、夕方バットを持ってリビングに殴りこんできたゾロを思い出した。冷静に考えればかなり笑える話だが――でも、なんというか。
(なかなか、頼もしいじゃねえか。アホだけど)
「まあ、そうか……」
「そうだ」
シャッターの下りた商店街はしんと静かで、時々猫がニャアと鳴く声が聞こえた。2人はじっと黙って、父ちゃんはひたすら自転車を押して歩き続けている。
(――思えば、この背中も随分とでかくなったもんだ。)
アーケードの隙間から覗く夜空を見上げながら、母ちゃんの胸は少しだけキュッと軋んだ。
「ちょっと遠回りしてくか」
「バーカ」
ゾロの背中も、いつかはこんなふうになるのだろうか。
作品名:市営住宅の真ん中の入り口の4階の右 作家名:ちよ子