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山月記パロ

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 ある日静雄は、これ以上自分の怪力で誰かを傷つけることを恐れて、姿を消した。それから、全くの孤独の日々が始まる。
 静雄の怪力は本人の意図しないところでも発生する。それが一番の恐怖だった。ならば、人との関わりを全て断ち切ればいい。そうして静雄は山奥で宿を作りずっと過ごし続けていた。

 そして一年ほどが経ったとうとう、静雄は発狂した。

 夜中、急に顔色を変えて寝床から起き上がると、何か訳の分からないことを叫びながら、そのまま部屋を出て闇の中へと駈け出した。彼は二度と宿へ帰らなかった。とっくの昔からではあるが、それから静雄の行方を知るものは誰一人としていなかった。


 まさか、昔犬猿の仲とまで言われていた、その相手である静雄が虎になるなど。皮肉を込めて「君は本当に、虎みたいだねぇ」などと揶揄したことはあるが、それが実際に起こることはさすがに想定していなかった。
 驚きのあまり珍しく言葉を失った臨也に、静雄は続ける。

「……今から一年前だ。ある夜に、ふと目が覚めたら、外で誰かが呼んでた。外に出てみたら、声が暗闇の中から何度も何度も俺を呼ぶ。なんとなく、その声を追いかけてみたんだ」

 草むらの向こうにいるため静雄の表情はよく見えないが、さぞかし虚しい顔をしていることだろう。臨也はあえて触れなかった。黙って、以前よりずっと低くなった唸るような声に耳を傾ける。

「何も考えてなかった。ただ走ってた。そうしたら、気がついたら、俺は、左右の手で地面を蹴って走ってたんだ。意味わかんねえ。でもよ、いつもとなんか違う力が体中に満ち溢れてきて、すげえ気持ち良かった。……明るくなって、川で自分を見たら――虎になってた」

 信じられる要素など、何一つとしてない話だった。しかし、現に静雄は、今こそ姿は確認できないものの、確かに虎であった。その事実は揺らがない。臨也は目の前が暗くなるのを感じた。まさか、嘲笑すらできないだなんて。
 しかし、本当に臨也が驚愕したのは、その次の言葉だった。

「こんな姿になっても、今みてえに、たまに人間の意思が戻ってくる。そんな時にな、ちょうど、兎の死体とかが、そこら辺に散乱してたりすんだよ。……それが、人間だってことも、ある」

 静雄の気持ちは計り知れない。突然虎になって、自分を見失って、兎や人間を食い散らかして、だがそれを把握できる理性もまだ残っている。生き地獄だ。そして恐らく、死ねないのだろう。臨也は生まれて初めて、静雄という存在を憐れんだ。同情の域を越えている。理解の範疇に在らない。

「……そんな人間の心も、その内消える。分かってるんだ。そっちの方が、ずっと、楽だって。なあ、分かるか? 最初はなんで虎になっちまったんだ、って思ってたんだけどよ。最近じゃあ、なんで俺は人間だったんだ? なんて戯言をほざいてやがる。俺の理性なんてもうあってないようなもんだ。今手前を喰い殺してねえのが不思議なくらいにな」

 確かにそうだった。ちりちりと殺気のようなものは感じるが、それは以前の静雄となんら変わっていないような気がする。しかし臨也は気づいていた。きっと、その理性もそう長くはないのだと。
 それでもなお、臨也は静雄を怖ろしいとは思わなかった。
 何にも変わっていないのだ。臨也の中で、静雄は既に虎であった。常に孤独さを求め、孤独で在り続けた、哀れな虎だった。そんな静雄の願望を邪魔し続けたのが、臨也だ。
 臨也は静雄を怖いと思ったことなど、一度もない。人間と言う存在には畏怖にも似た愛情を抱いているが、静雄は人間として認識していないのだ。だから今も、姿までもが人間でなくなった、ただそれだけのこと。

「なあ臨也、俺が怖いか」
「怖くないよ」

 姿は見えない。声は低く唸る。それは虎。恐怖を覚えぬ人間などいない。いつ喰われてもおかしくはない状況なのだ。にも関わらず、臨也は間髪入れずそれに応えた。草むらががさりと動く。

「シズちゃんはシズちゃんでしょう。他の子が言ったら陳腐な台詞かもしれないけど、俺が言ったら、随分意味が違ってくると思わない?」

 確かにそうだ、と静雄は納得していた。同時に、心中にふつふつと怒りや憎しみとはかけ離れた、もう忘れかけていたはずの感情が蘇ってくる。確か、俺は、この男を殺したがっていたはずだが、同時に好いていた。既にぼやけている記憶を、静雄は探った。
 どれだけ怪力を奮っても、決して逃げなかった男。怒りの矛先を向けられても、嗤っているだけの男。気がつけばずっと傍にいた男。嫌いで嫌いで仕方なくて、こんなに人間と言うものを意識したのは初めてで、いつの間にかなくてはならない存在になっていた男。そうだ、俺はこの男のために山奥まで逃げてきた。守るために逃げるなど、きっと誰も分かってはくれない。

「……本当はな、分かってたんだ。この力をなんとかしよう、なんとかしようと思って、結局なるようになれと流されていた自分が一番悪いんだって。だからこうなった。分かってる、分かってる。この姿でどんだけ嘆いて、叫んでみても、どいつもこいつも怖がってひれ伏すだけだ。動物なんてそんなもんかもしんねえけど、何も変わってねえ。俺は、元から、そうだった」

 静雄は元から虎だった。臨也も知っている。何を今更、と、臨也は薄い笑みを浮かべた。

「ねえ、シズちゃん。君が全部忘れても、俺は君に傷つけられたこととか全部覚えてるから」
「……」
「本当は忘れるなんて許したくないけどね。俺ばっかり痛くて、ずるいじゃない。シズちゃんに公平さを求めようなんてするのが悪いんだけど。ああ、ほら、やっぱりシズちゃんは最初から虎だったんだよ」

 臨也は、静雄を元に戻そうとは微塵も考えていなかった。これは仕方のないことだ。人生の不条理さを認めるしかない。だから、せめて静雄を少しでも楽にしてやりたかった。何も静雄に限ったことではない。たとえこれが静雄でなかったとしても、臨也は同じことをしてやっただろう。諦めるな、人間を忘れるなという言葉は、あまりにも無情すぎる。臨也は人間だった。

「そうか」
「そうだよ」
「……」
「シズちゃん」
「頼みがある」

 ひどく落ち着いた声だった。

「なに?」
「もう二度と、この道を通るな。次に会う時、俺はもう、俺じゃない。ただの一匹の虎だ」
「……わかった」
「ここからしばらく離れたら、一度だけ、俺を振り返れ。俺の姿をもう一度だけ見せてやる。忘れられたくないわけじゃねえ。手前だって人の子だ。俺のこんな姿を焼きつけたら、二度と俺に会いたいなんて思わねえ」

 それでも、俺は、君が好きだよ。
 そうとは言わぬまま、臨也は黙って頷いた。草むらで見えないが、静雄は恐らく安堵した表情をしていることだろう。臨也の胸の奥が詰まる。聡明な臨也はその感情を形容する言葉を持ち合わせてはいても、理解することはできなかった。互いに惹かれあっていたことを知っていたのに、最後までそれを告げることもなく、触れることさえもできないなんて。臨也は初めて自分が哀れな存在であることに気づいた。

「さよなら」
作品名:山月記パロ 作家名:あっと