テニスのゆうれい
越前南次郎が西海岸のその家を購入したのは一重に
出る
と言われたからだった。
「ホントかよ」
「本当ですとも。ええ。お陰でもう2年も買い手がつかなくて。お客さんみたいな物好きが今まで何人かいらしたんですけど、皆様ことごとく後で怒鳴り込んで来まして。こちらとしては最初から正直にそう申し上げておりますのに」
不動産屋の男はほとほと困り果てた、という顔付きでその巨体を揺らしながら屋敷の玄関の鍵を開けた。
立地条件はよくも悪くもない。住宅密集地でもなく、隣家とはほどよく距離がある。かといってポツンと一軒家でもない。
なにより自前のテニスコートがあるのがいい。コート側には民家はなく、万が一ボールがフェンスを越えたとしても文句を言ってくる住人はいないだろう。コートも今は整備が足りず散々な状態だったが基礎工事はしっかりしている。
本当ならもっと条件のいい物件はあったのだが、南次郎がこの物件に興味を持った最大の理由は「幽霊付き」という点だった。
しかもその幽霊はコートに出て、ボールを打つらしい。
「そいつあ練習相手を探す手間が省けるぜ」
呵々と笑う南次郎を薄気味悪そうに見上げ、不動産屋は屋敷を一通り案内すると契約書を出した。
「ミスター、こういっちゃなんですがこの物件はホンモノですよ。私もオカルトだなんだは信じない方ですが見ちまったもんはしょうがない。かといってこっちも商売だからこうしてお売りしますが、後で泣いても我が社は一切責任は持ちませんよ。契約書にも書いてあります」
「あー、うっせえうっせえ。客が買うってんだからおとなしく売っとけ。ほらよ」
南次郎はサインした契約書を乱雑に不動産屋に放った。男は慌てて受け取る。
何度も念押しをする不動産屋を追い出すと、南次郎は屋敷を抜けてコートに出た。
「さあって、まずはここの整備からだな」
南次郎がツアーから帰る頃にはコートを含めた屋敷のメンテナンスは一通り終わっていた。
荷物を適当に放り投げるとシャワーを浴び、バスローブだけの格好でビール缶片手にコートへ出る。
見違えるように整備されたコートを見て手にしていた缶のプルを引き、コートに掲げるように突き出すと、満足げに飲み干した。
「後は幽霊さんを待つばかり、ってか」
それから。
待てど暮らせどコートに幽霊は現れなかった。
「騙しやがったな」
南次郎は口をゆがめると据わった目でちっ、と舌打ちをした。
しかしこのまま諦めるのも腹立たしい。
「こうなったら……」
南次郎は昼間買ってきた日本酒の瓶を持って夕暮れのコートに出た。
そしてコートの真ん中、ネット際にどん、と置く。
「……」
そして無言で腕を組み、しばらく立ち続けた。
もし倫子がその姿を見れば「お供えのつもり…?」と突っ込んだかもしれないが、宵闇が迫る薄暗いコートには南次郎と一升瓶だけで、一人と一本は黙々と共に立っていた。
しばらくして流石に何か思うところがあったのか、南次郎は舌打ちをして頭を乱暴に掻きむしると、酒瓶を取り封を切った。
「撒くんだっけか……?」
南次郎が日本酒をコートに撒こうと構えた正にその時、
「なんてものをコートに撒こうっていうんだ」
澄んだ、若々しい男の声がした。
その声に南次郎はぴたりと手を止め、辺りを見回す。
すると薄暗がりの向こう、ベースラインのあたりに背の高い人影があった。
「へっ、やっとおでましか」
南次郎は口端を引き上げて笑うと一升瓶に栓をして足元に置き、人影の方へと近付いていった。
「出てくるのが遅ぇんだよ。こっちは待ちくたびれちまったぜ」
「待っていたのか?」
気安くかけた南次郎の言葉に、不思議そうな声音で律儀に返事が返る。
その声も明瞭で、南次郎は一瞬、近所の誰かなのかもしれないと思った。
傍まで近寄ってみると家の灯りにうっすらと浮かび上がる影は成人男子のようで、南次郎と同じぐらいの体格をしていた。テニスウェアからすんなりと伸びた手足はよく引き締まった線で、姿勢のいい立ち姿は目に好ましい。目元に僅かに灯を反射する線があり、どうやら眼鏡をかけているらしかった。
――ご丁寧な幽霊だな。
よく見えない相手の顔を覗き込むように目を眇めながら真正面に立つ。
ほとんど陽の落ちた時刻とはいえ、これほど至近距離で向かい合っているというのに、相手の顔は南次郎にはよく見えなかった。
「おうよ。待っていたとも」
「それはすまなかった」
人影はぺこりと頭を下げた。
呆気に取られた南次郎はぽかんと口を開け、しばらくその様子を眺めていたがしばらくしてくっくっくっと笑い出した。
「律儀な幽霊さんだぜ」
「お前は驚かないんだな」
顔を上げた人影はこれまた不思議そうに南次郎に尋ねた。
「つーか……お前ホントに幽霊?」
「らしい」
「らしいって…オイオイ……まあいーや。オラ、打とうぜ。お前テニスする幽霊なんだろ?」
南次郎は踵を返すとラケットを取りに屋敷の方へ向かった。
しかしはっとして足を止め、振り向く。
「オイ……ってそういやお前、人と打てるのか?」
問いかけられた人影は小首を傾げ、
「さあ……生きている人間と打ち合ったことはないな」
と答えた。
「じゃあ死んでるヤツと打ってたのかよ」
「いや、死んでいる人間とも打ち合ったことはない」
「どっちなんだよ」
「そう言われても俺も困る」
人影の些かむっとした声音に随分人間くさい幽霊だ、と南次郎は笑うと、
「そうだお前、名前は?」
南次郎はもののついでといった調子で尋ねたのだが、ひっそりと立つ人影はその問いにはゆっくりと首を振った。
その仕草が今までと打って変わって物寂しげな、正に消え失せそうな風情だったので、南次郎はわざと明るく声を立てた。
「そうだな、幽霊にも都合があらーな。じゃあ幽霊だ。これから幽霊って呼ぶぜ。シンプルイズベストだ」
待ってろ、消えるんじゃねえぞ、と念押ししてラケットを取りに走っていく南次郎の背中を見送りながら、人影――幽霊は苦笑ともつかない忍び笑いを洩らした。
出る
と言われたからだった。
「ホントかよ」
「本当ですとも。ええ。お陰でもう2年も買い手がつかなくて。お客さんみたいな物好きが今まで何人かいらしたんですけど、皆様ことごとく後で怒鳴り込んで来まして。こちらとしては最初から正直にそう申し上げておりますのに」
不動産屋の男はほとほと困り果てた、という顔付きでその巨体を揺らしながら屋敷の玄関の鍵を開けた。
立地条件はよくも悪くもない。住宅密集地でもなく、隣家とはほどよく距離がある。かといってポツンと一軒家でもない。
なにより自前のテニスコートがあるのがいい。コート側には民家はなく、万が一ボールがフェンスを越えたとしても文句を言ってくる住人はいないだろう。コートも今は整備が足りず散々な状態だったが基礎工事はしっかりしている。
本当ならもっと条件のいい物件はあったのだが、南次郎がこの物件に興味を持った最大の理由は「幽霊付き」という点だった。
しかもその幽霊はコートに出て、ボールを打つらしい。
「そいつあ練習相手を探す手間が省けるぜ」
呵々と笑う南次郎を薄気味悪そうに見上げ、不動産屋は屋敷を一通り案内すると契約書を出した。
「ミスター、こういっちゃなんですがこの物件はホンモノですよ。私もオカルトだなんだは信じない方ですが見ちまったもんはしょうがない。かといってこっちも商売だからこうしてお売りしますが、後で泣いても我が社は一切責任は持ちませんよ。契約書にも書いてあります」
「あー、うっせえうっせえ。客が買うってんだからおとなしく売っとけ。ほらよ」
南次郎はサインした契約書を乱雑に不動産屋に放った。男は慌てて受け取る。
何度も念押しをする不動産屋を追い出すと、南次郎は屋敷を抜けてコートに出た。
「さあって、まずはここの整備からだな」
南次郎がツアーから帰る頃にはコートを含めた屋敷のメンテナンスは一通り終わっていた。
荷物を適当に放り投げるとシャワーを浴び、バスローブだけの格好でビール缶片手にコートへ出る。
見違えるように整備されたコートを見て手にしていた缶のプルを引き、コートに掲げるように突き出すと、満足げに飲み干した。
「後は幽霊さんを待つばかり、ってか」
それから。
待てど暮らせどコートに幽霊は現れなかった。
「騙しやがったな」
南次郎は口をゆがめると据わった目でちっ、と舌打ちをした。
しかしこのまま諦めるのも腹立たしい。
「こうなったら……」
南次郎は昼間買ってきた日本酒の瓶を持って夕暮れのコートに出た。
そしてコートの真ん中、ネット際にどん、と置く。
「……」
そして無言で腕を組み、しばらく立ち続けた。
もし倫子がその姿を見れば「お供えのつもり…?」と突っ込んだかもしれないが、宵闇が迫る薄暗いコートには南次郎と一升瓶だけで、一人と一本は黙々と共に立っていた。
しばらくして流石に何か思うところがあったのか、南次郎は舌打ちをして頭を乱暴に掻きむしると、酒瓶を取り封を切った。
「撒くんだっけか……?」
南次郎が日本酒をコートに撒こうと構えた正にその時、
「なんてものをコートに撒こうっていうんだ」
澄んだ、若々しい男の声がした。
その声に南次郎はぴたりと手を止め、辺りを見回す。
すると薄暗がりの向こう、ベースラインのあたりに背の高い人影があった。
「へっ、やっとおでましか」
南次郎は口端を引き上げて笑うと一升瓶に栓をして足元に置き、人影の方へと近付いていった。
「出てくるのが遅ぇんだよ。こっちは待ちくたびれちまったぜ」
「待っていたのか?」
気安くかけた南次郎の言葉に、不思議そうな声音で律儀に返事が返る。
その声も明瞭で、南次郎は一瞬、近所の誰かなのかもしれないと思った。
傍まで近寄ってみると家の灯りにうっすらと浮かび上がる影は成人男子のようで、南次郎と同じぐらいの体格をしていた。テニスウェアからすんなりと伸びた手足はよく引き締まった線で、姿勢のいい立ち姿は目に好ましい。目元に僅かに灯を反射する線があり、どうやら眼鏡をかけているらしかった。
――ご丁寧な幽霊だな。
よく見えない相手の顔を覗き込むように目を眇めながら真正面に立つ。
ほとんど陽の落ちた時刻とはいえ、これほど至近距離で向かい合っているというのに、相手の顔は南次郎にはよく見えなかった。
「おうよ。待っていたとも」
「それはすまなかった」
人影はぺこりと頭を下げた。
呆気に取られた南次郎はぽかんと口を開け、しばらくその様子を眺めていたがしばらくしてくっくっくっと笑い出した。
「律儀な幽霊さんだぜ」
「お前は驚かないんだな」
顔を上げた人影はこれまた不思議そうに南次郎に尋ねた。
「つーか……お前ホントに幽霊?」
「らしい」
「らしいって…オイオイ……まあいーや。オラ、打とうぜ。お前テニスする幽霊なんだろ?」
南次郎は踵を返すとラケットを取りに屋敷の方へ向かった。
しかしはっとして足を止め、振り向く。
「オイ……ってそういやお前、人と打てるのか?」
問いかけられた人影は小首を傾げ、
「さあ……生きている人間と打ち合ったことはないな」
と答えた。
「じゃあ死んでるヤツと打ってたのかよ」
「いや、死んでいる人間とも打ち合ったことはない」
「どっちなんだよ」
「そう言われても俺も困る」
人影の些かむっとした声音に随分人間くさい幽霊だ、と南次郎は笑うと、
「そうだお前、名前は?」
南次郎はもののついでといった調子で尋ねたのだが、ひっそりと立つ人影はその問いにはゆっくりと首を振った。
その仕草が今までと打って変わって物寂しげな、正に消え失せそうな風情だったので、南次郎はわざと明るく声を立てた。
「そうだな、幽霊にも都合があらーな。じゃあ幽霊だ。これから幽霊って呼ぶぜ。シンプルイズベストだ」
待ってろ、消えるんじゃねえぞ、と念押ししてラケットを取りに走っていく南次郎の背中を見送りながら、人影――幽霊は苦笑ともつかない忍び笑いを洩らした。