テニスのゆうれい
コートに大の字に伸びた男の激しく上下する胸を涼しい顔で見下ろしながら、幽霊はラケットを持ったまま腕を胸の前で組んだ。
「もう限界か?」
初めて打ち合った時と同じ問いをする幽霊に、南次郎は息を整えることに精一杯で答えることが出来なかった。
「……っか、クソ」
南次郎が落ち着くのを待つかのように佇んでいた幽霊は、復活したらしい南次郎の側に膝をつくとその顔を覗き込んだ。
いつもの、ナイターの光に負けてしまいそうな不明瞭な顔ではなく、しっかりと存在感のある気配に南次郎は軽く目を瞠る。
フレームレスの細い眼鏡が乗る細面の相貌は、どうやら東洋人のようだった。そんなことに改めて気付いて、南次郎は眉をひそめる。
「お別れだ」
「あ?」
「だから、お別れだ」
「……て待て待て、成仏するってことか?」
「そうなるかな?」
「かな? じゃねえだろ。お前自縛霊なんだからそうだろ」
「以外に物知りだな」
「まあな。そっち方面が専門のヤツがいてな……ってそうじゃねえだろ。お前、すげえイキナリだな」
「そうか? 俺にとっては随分長かったが」
南次郎は腹筋で上体を起こすと、座ったまま幽霊に向き直った。
「一体なんでだ? そういやお前ってなんか心残りがあるんだっけ?」
今更のようにそんなことを聞いてくる南次郎に幽霊は笑うと、ゆっくりと首を振る。
それは名を聞いた時と同じ様な、物寂しげな仕草だった。
「そっか……そいつあまあ、おめでとさん。元気でな、ってもう死んでるか」
「ああ。出来の悪い生徒を放り出していくようで気がかりではあるがな」
「ぬかせ。天国で俺の大活躍を見てやがれ」
幽霊はそれには答えず、ただ笑うと
「お前の面倒はもう見れないが、そうだな、今までつき合ってくれた礼にお前の子供か、孫か、とにかく先の血縁の面倒なら見てやってもいいぞ」
「んないつ出来るかわかんねえガキ共より今の俺の面倒を見ろよ」
まるで引き留めるような言葉が出た口に、なにより南次郎自身が驚いた。
驚いたが、その気持ちに嘘偽りはないことにも気が付き、いつもの不貞不貞しい顔を引っ込めて幽霊を見すえる。
その初めて見る生真面目な顔に幽霊は思わず、と行った風情で破顔すると、和ませた目のまま顔を寄せ、そっと触れて離れるだけのキスをした。
幽霊の華やかな笑顔に虚を突かれたところに降りてきた口唇は、それでもやはり土のように冷ややかで、南次郎は口唇の柔らかさを感じると同時に自分の背が冷えるのを感じた。
「……ホントに幽霊なんだな」
「そうだ」
幽霊は短く答え、立ち上がった。
「待てよ」
ベースラインへと歩いていく幽霊を南次郎が呼び止める。幽霊が振り向くと既に立ち上がった南次郎が後を追ってすぐ傍まで来ていた。
「越前だ」
「何?」
「だから、越前だ。越前南次郎。それが俺の名前だ。お前、間違って余所の越前のところに行くんじゃねえぞ」
先程同様、生真面目な顔でそんなことを言う南次郎の顔にふと少年の貌を見つけて、幽霊はまたはんなりと笑った。
そうして笑う幽霊の肩を南次郎はそっと抱き寄せる。
何か重い空気の固まりのようなたよりなさに我知らず目頭が熱くなり、誤魔化すように固く目を閉じると幽霊の顎を取り、先程の幽霊と同じように触れるだけの口付けを落とす。
そのままずっと抱き寄せていた。
腕の中の気配が消えるまで。
「おいちび助」
自宅の庭先で南次郎が呼ぶと、おおよそ子供らしくないむすっとした顔付きの少年がラケットを胸に抱いてトコトコと歩いてきた。
南次郎は一升瓶を片手に、少年と一緒にコートへ向かう。
コートに着くと、南次郎はベースラインの上に一升瓶を置いた。
訝しげな目で瓶を見て、そして父親を見上げる少年の頭を南次郎は乱暴に撫でるとベースラインの向こうへと視線をやり、懐かしげな目をして笑った。
「ちび助。もしラケットを持った幽霊を見ても絶対追い返すんじゃねえぞ」
そんで急いで俺を呼びに来い。
――しかしそのコートに幽霊は二度と現れず、越前一家は日本へと赴く。