つむぎゆくもの
黒いローブを脱いだ、白い袖に包まれた細い少年の腕に、そっと手を重ねてロンメルは言った。
互いに、伝わる熱はなく、透明な水晶と同じように冷たいままだ。
けれど、そこにある想いは確かに伝わってきて、美鶴はきつく目を閉じる。
「行っておいで」
ロンメルは、優しく包み込むように言葉を贈った。
◆◇◆
幻界から現世へと戻ってくる瞬間は、なんとも言えない感触がある。
美鶴の前にそんなことをした者がいたとしても千年前だ、感想を聞くわけにもいかない。
とりとめもないことを考えながら、美鶴は現世に戻った。
幻界に行っている間も、現世では美鶴が存在しているため、その間の記憶は二重にあることになる。
この感覚をどう説明したものか美鶴自身にも分からない。
とにかく無理やりにでも辻褄を合わせているのだろう、面倒なことは考えないことにして、美鶴は立ち上がった。
気がついた場所は誰も居なくなった教室で、今まで本を読んでいたらしい。いや、らしい、ではなく本を読んでいた。
丁度読み終わったところで、その内容もきちんと頭に入っている。
本を鞄に詰めると、教室を後にする。下校の時刻は過ぎていた。
階段を一段一段下りながら、美鶴はロンメルの言葉を思い出す。
世界の全てを捨てても、それでも最後に残ったもの、その、もの、を、美鶴はずっと避けていた。
今、美鶴の中にある、恐れは、あの頃にはなかったもので、だからこそ美鶴は戸惑った。
しかし、ロンメルの言葉からすると、彼はずっとそれを持ちながらも、持ったままで、それでも美鶴を追い求めたのだという。
靴を履き替えて校庭に出ると、そこから先の校門からずっと向こうに、暮れかける夕日が僅かにのぞいている。
建物も木々も全て朱に染められていて、美鶴はふうっと息をついた。
まごうことなく、ここは幻界ではない、現世。要御扉の先へ見送った彼が生きるべき世界であり、本来なら美鶴はもう存在しない世界。
それでも、望みを叶えられなかった自分でも、信じていいのだろうか。繋いだ指先を。
会いに行こう、美鶴はそう思った。会って確かめて見ればいい、そうすればきっと分かるだろう。
夕日の眩しさに僅かに視線を落とし、歩き出した、その時に。
「ミツル!」
校庭中に響き渡るかという程の声で、名前を呼ばれて、美鶴は弾かれたように顔を上げる。
名前を呼ばれたことよりも、その声の持ち主の存在の方に驚いて、少し離れたところにいる相手を凝視する。
黒い髪、黒い瞳、一方的とはいえ会ったばかりだというのに、真っ直ぐに視線を向けられることには美鶴は久しぶりのように感じた。
真っ直ぐに、突き刺すほどに強く、美鶴だけを見つめるその視線は、痛いほどに心地よい。
美鶴が何も言わないでいると、相手はふいに不安げな顔を見せて、悔しさと悲しさを織り交ぜたように顔をしかめる。
美鶴は、どうしようもなく暖かで柔かな…忘れてしまっていたかのようなそんな気持ちが溢れて、苦笑した。
視線に絡めとられて、もう動けない。逃げられない。逃げるつもりもないけれど。
驚愕に見開かれた漆黒の瞳に、今度こそ笑いかけて美鶴は口を開いた。
「なんだよ、ワタル」
その名前の形に唇を動かし、その名を紡ぐことすら愛しいのだと気づいて、駆け寄ってくる亘を美鶴は笑顔で受け止める。
ヴェスナ・エスタ・ホリシア。
さよならの言葉は翻され、再び時が動き始める。