つむぎゆくもの
「まだ本調子ではないようだ。…あまり無理をするな」
美鶴はうんざりした表情で、それでも素直に頷いた。押問答をするには、体力も気力も足りなかったし、相手が正しいことを言っている今の状態ではさすがに美鶴でも、言い負かすことは難しい。
男はそっと壊れ物でも扱うかのように美鶴を再びベッドに戻す。
柔かな仕草であるけれども、その指先には消えることのない小さな傷跡がいくつも残っており、整っていながらも力強い掌は、歴戦の戦士であることを示している。
再び乱れてしまった美鶴の柔かな髪をその指先で梳けば、男の豪奢な金髪もさらりと揺れた。
「ロンメル」
美鶴がよく通る声で、男の名を呼んだ。
ロンメルは穏やかな声で、なんだい、と返す。その瞳には幼子を慈しむような光が宿っている。
実際、ロンメルは美鶴を子どもとして扱っていた。美鶴がそれに対して苛立っているのにも気づいているが、ロンメルはそれを正さない。
ハルネラ。二人のヒト柱。半身。そして冥王となったときに、美鶴のことをロンメルは知ってしまった。
数奇な、そして過酷な運命を生きた、まだ小さな少年のことを知ってしまった。
曲がったことはけして許しはしないロンメルだが、それは幻界でもそういはしない運命を背負った少年、既に自らの過ちを知っている少年を裁くことはできなかった。そして何より同じ冥王として千年をすごす半身だった。
子どもとして慈しんではいけないと、誰が言おうか。
美鶴は、何の感慨も浮べず、ロンメルを見上げて口を開いた。
「あいつに、会った」
ロンメルは誰であるかを悟って、先を促してひとつ頷く。
「けれど、俺はあいつに会う気はない。それなのに、あいつは諦めようとしない」
「冥王だから、か?会えないのは」
ロンメルの言葉に美鶴は口を閉ざした。理由はいろいろとある、けれど、それはただの建前かもしれない、もしかしたらそれだけの理由なのかもしれない。
美鶴の幻界での生命は既に絶たれた。強大な魔法を使って、自分で自分を殺した。
だからここにあるのは云わば借り物のような命だ。千年後には光となって消えゆく命。
誰しも千年後に生きてはいない。今は別段惜しいとも思わない。
願いを叶えた"旅人"、その願いの中に含まれていたから、美鶴は現世でも存在する。しかし、半身としての役目もあるために幻界にも存在する。
同じ役目を負ったロンメルですら、その気持ちは理解できないだろう。
美鶴は、幻界では死んでいながら生きて役目を果たし、そして現世でも生きている。仮初の命であるというのに。
千年、それはどれくらいの時間なのだろうか。ヒトの生きる時間ではない。今の美鶴には分からない。
美鶴には、予感ではなく確信があった。手をとってしまえば、もう戻れなくなる。もう今の美鶴には手を離して拒絶するだけの理由が、ない。そして彼が自ら手を離すことは絶対ないだろう。
ロンメルは静かな表情の下に見え隠れする美鶴の葛藤を感じ取って、そっと笑みを浮べた。
「君と彼は対照的なようでよく似ている」
美鶴がロンメルに視線を向ける。
ロンメルは思いを馳せるように遠くを見つめた。
運命の塔でもない、幻界に存在するものでもない、冥王の存在を唯一許すこの場所は、現世からも幻界からも遠く離れている。
美しく透き通る水晶は、見るものの心のままに風景を映し出し、ゆらぎ、消える。
これまでの冥王たちも、こうして幻界を見守っていたのだろうか。
「君たち"旅人"が幻界を旅している間、彼と話す機会が何度かあったよ。
あれは…いつだったか。そう、確か君が、マキーバの山火事を消し止めた後のこと、リリスへの街道でのことだった」
美鶴もいつのことかを思い出した。マキーバの山火事、そういえばそんなこともあった、その程度のものだったけれど、確かにそれは美鶴が竜巻と海竜を呼び出して消し止めたものだった。
そして、リリスでもう一人の"旅人"と再会したのだ。その合間に二人は出会ったのだろうか。美鶴はひとつ瞬きをしてさらりと零れるロンメルの金色の髪を見つめた。
「夜になっても、私は眠れなくてね。キャンプから少し離れたところで夜空を見ていた。
そこに、彼がやってきたんだ」
ロンメルの心に呼応して、水晶がきらきらと光る。
そしてさあっと色を変えると、そこにはあの日ロンメルが見上げた北の夜空が広がっていた。
天井も、床も、壁も、水晶という水晶が夜空を映し出し、星々をきらめかせる。
今にも涼しげな夜風が吹いてきそうだったが、それでもここは水晶でつくられた冥王の住まう場所。幻界のものも、現世のものも、映し出すだけで本物はどこにも存在しない。
美鶴は夜空に囲まれて、ふっと息を吐く。
ロンメルは再び口を開いた。
「彼も眠れなかったらしい。不安だったのかもしれない、私が悩んでいることに気づいていた。…聡い子だと思ったよ。
そして、私に一言だけ尋ねてきた」
ロンメル隊長にとって、カッツさんはただ一人の人じゃなかったんですか?
「私は答えることが出来なかった。確かに私は彼女を愛していたかもしれないが、それだけで片付けられる問題ではなかった。
彼がそんなことを知る由もない、けれど、彼はそんなことを抜きにして尋ねたのだと分かった」
ロンメルが、全てではなくとも美鶴のなかを知ったように、美鶴もまた、ロンメルのことを知った。
だから、ロンメルとカッツの関係も、その中で起こったことも知っている。
しかし、今ロンメルが話していることは知らなかった。
「言いあぐねた私に、彼は困ったような嬉しいような、そんな顔をして言ったよ。
自分は、ただ一人の人に出会ったのかもしれない、と」
僕はただ一人の人に出会ったのかもしれません。
「彼は、そのときだけは子どもの瞳をしていなかった。真剣な瞳で、そこには歓びと苦しみがあった。
そう、今の君と同じように」
映し出された夜空から、美鶴の瞳に目を向けて、ロンメルは言った。
美鶴は驚きに目を見開いて、ロンメルを見上げている。
「けれどそのただ一人の人とは道を違えている、一緒には行けないのかもしれない、それでも手を繋ぎたいのだと、彼はそう言っていた。
…誰のことを言っているのか、私は知らなかった。けれど、今なら分かる気がする。君にも、分かるだろう?」
ロンメルの言葉は、美鶴の中にゆっくりと沈んでいく。
あの頃、美鶴は自分の願いのためだけに動いていて、周りの、他のことなど大して気にも留めていなかった。
山火事を止めたことも、本当の親切心からやったことではなく、喧騒がうるさく、火事をとめることなど、美鶴には造作もないことだからだった。
その頃、彼はどうだったのだろうか。
不慣れな幻界で、右往左往していたわけではないのか。
美鶴が彼とスラの森、トリアンカ魔病院で再会したときも、ピンチに陥っていて、心底ばかだと美鶴は思ったものだった。
ばかで、お人好しで、おせっかいで…横になったまま、美鶴は腕で顔を覆った。
それなのに、そんなことを考えていたというのか。
「君にも、あったのではないか?
世界の全てを切り捨てても、捨てられなかったもの…最後に、残った、ものが」