サンズ ア ワード
おもむろに手で道路側を指す、と言うことは、車でも待たせているのだろう。もちろん帝人はここで明らかに堅気でない見た目をしている彼に、のこのこ着いていくような愚を犯すつもりはなかった。多分彼は自分のしている事を知っている。ならば、とにかく今自分がしていることを邪魔させるわけにはいかないのだ。
考える、まさか本当に見た目通りの暴力団関係だった場合、ここで逃げるのが得策でないことは分かっている。しかも彼は園原さんの知り合いだ。帝人を悪いようにはしないだろう。冷静に考えればそうであるはずなのに、いざ1対1で対峙すると、彼がそんな生やさしい人間であるとは到底思えなかった。おそらく、こちらが言うとおりにしなければ、力づくでも連れて行くような人間だ。そんな人間に、おいそれとついて行こうとは思えない。
答えは声をかけられた瞬間から決まっていた様なものだ。
逃げられるという選択肢すら上がっていなかった赤林の目の前で、帝人は勢いよく振り返り、脱兎のごとく階段を駆け上がる。僅かな会話の間に用意していた鍵でドアを開け、中に入って鍵をかける。
間に合うかどうかは賭けだったが、帝人は見事勝った。急な事に驚いたのか、背後から追いかけてくる気配はなかった。
そのまま土足で部屋に入り、ひとつ深呼吸して、荒い息をどうにか整える。
押し入れを開け、文庫本を抜き取り、ついでに上着も鞄に入れる。
そこでようやく、階段を上がる音が聞こえた。
その音がドアの前で止まったと同時に、
窓を開けて身を躍らせた。
車が用意されているのなら、なるべく細く車が通れないような路地を選んで進めばどうにかまけると思った。おそらく、一番の問題は未だ玄関前にいるであろう赤林とかいう男だ。
着地の衝撃で足首がしびれる。古い建物らしく家屋としては2階の位置も低い方だったが、幸運にも怪我はないようだ。上手く足に力が入らないのを叱咤して走り出す。周りに人の姿がないことに安堵しつつ、目の前の道路を横切り、路地に入ろうとした瞬間に、何かにぶつかったかのような衝撃。
「いくつか選択肢はあったと思うけれど、それは一番の悪手じゃないかなぁ」
腕の痛みと共に、高いところから振ってきた飄々とした声に、帝人の体が固まる。
先ほど紹介された笑みのまま、彼が見下ろしていた。
いつの間にかそばにいたらしいその男が、力ずくで腕を引っ掴み帝人を止めたのだとようやく気づく。急なことに、何が起きたのか分からなかった。
そのまま肩に手を置かれ、押し出させるように帝人の体がアパートの方へ戻される。置かれている手に力は入っていないし、その他はどこも強制されているわけでもないのに、否応なしに連れて行かれるのが怖かった。
と、目の前のアパートの階段から、黒いスーツを着た見慣れない男が降りてくる。しかもどこに停めていたのか、これまた黒塗りの車がアパート前につけられる。自然な動作でアパートから出てきた男が車のドアを開けてこちらを待ちかまえるのを見て、まんまとはめられたのだと気づく。自分のやることなど全て見透かされていた。
「じゃ、行こうか」
後部座席に並んで座った彼が明るくそういうのを、帝人はうっそりと見上げた。
連れられた先は、池袋駅からそう離れていない建物だった。外装こそ普通のマンションだが、中は小汚く、悪い意味で生活感が溢れていた。ソファーにずり下がるようにしてかかっている毛布、台所にたまる空き缶、ペットボトルやゴミ、床のほこり。赤林は慣れたように壁に杖を立てかけて、テーブルの上の書類やファイルらしきものが散らばっているのを乱雑にどかしスペースを作ると、竜ヶ峰へ席に着くよううながす。素直に従うしかないい帝人を満足げに見下ろして、一度台所へ行ったが、またすぐに戻ると帝人の向かいに腰掛ける。
「あいつらに買い物頼んでおけばよかったかな」
飲み物もなくて悪いね、と帝人に断る。自分もここへ運ぶと、部下らしき人たちは車でどこかへ行ってしまった。帝人は、目の前の人物が暴力団であることが確定され、憂慮すべき事態に何も出来ない。
自分が甘すぎた。ここの位置も分かるし、なによりブルスクの繋がりでいざというときは携帯を少し操作すればGPS情報付きで助けを呼ぶことも出来る。しかし帝人はもはや諦めの域にいた。何をやっても、今の自分はこの人から逃れられない。そういう予感がした
「そんな怖い顔しなくても、取って食おうって訳じゃない」
色眼鏡を外して、おもむろにテーブルに置いた赤林の顔を見て、帝人はその傷にようやく気づく。
「先も言ったように、ちょっと話を聞かせてもらいたいんだよ」
真正面から見つめられて、帝人はかすかな違和感を覚える。
その違和感が何か考えて、思い当たったと同時に自然と、
「あなた、目が、」
と声に出してしまっていた。言葉の意味すら考えず、口に出していた。
瞬間、自分のしたことのあまりの無礼に赤面する。あわてて、
「すみません!」
と、頭を下げる。いつもの帝人にあるまじき失態に、自分が一番驚いていた。射抜かれるような、全て受け止められるような、不思議な瞳だと思った。気づいたら声に出してしまっていた。自分の失言がなければ、もしかしたら一生捕らわれていたかっもしれないとさえ思った。
慌てた様子で謝罪する彼を見つめて、赤林はひとつ息を吐く。何となく確信する。彼と薬を売りさばく組織とは、おそらく直接の関係はない。あまりにもその瞳に濁りがなくて、思わず報告の全てを疑ってしまいそうだった。
これから、ここで彼の話を聞くことになるだろうが、しかしもはや分かり切っている答え合わせをしているようなけだるさしか感じない。それを押し殺して、赤林は笑みを作る。
長くなりそうな詰問に、罪悪感はなかった。