トライアングル
“そろそろ東京に行きます。久々に飲みませんか”
大学生になった忍足は従兄弟を頼って関西に移り住んだ。それでも、やはり東京に友達が多いのか、定期的に顔を出す。しかし飲みに誘われるのは本当に久しぶりだった。飲むと言えばワインな俺に付き合うのが面倒臭いと言われる。もっぱら相手と言えば宍戸だと思っていた。忍足のメールは常に標準語だ。関西弁をメールで打つと嘘くさくて気持ち悪いと言っていた。忍足の飲みは日本酒がメインだ。たまにはそれも悪くないだろうと思い、日時を教えろとそれだけのメールを返信した。
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また以前のように少し伸びてきた後ろ髪を、無造作に束ねた忍足は、既に八海山のボトルを横にしている。俺がよう、と声を掛けると、眼鏡の奥の目が細く釣り上った。
「久し振りやなあ、景ちゃん」
「早く髪切れよ、うざってえ」
店員が丁度横を通ったので俺は熱燗とホッケの炙りを注文する。腰をついたところで忍足が最近どうなん、と聞いた。
「あっちいるとなーんもわからへんねん。元気でやってるの知ってるん宍戸と岳人ぐらいやわ」
「俺だって知らねえよ…やべえ、俺も宍戸くらいしか」
「宍戸も苦学生やからねえ、あないにバイト掛けもちしとる癖にようこっちまで気が回るわって思うで」
忍足が変にため息をついたところで店員が熱燗と炙りを持って現れた。忍足がほいほいと受取り、俺へ回す。猪口に注いで一口含んで、味が気に入らないのでそれきり飲むのはやめた。その間も忍足だけはどんどん飲むので、そのペースに負けないように俺は食べ物で埋めることにする。
「景ちゃんって昔から変な癖あったよなあ。携帯電話のアドレス帳、必ず名前で入れないとか。記号とか意味わからへんねん」
「あーん? 別に俺様しか使わねえから構わねえんだよ」
忍足が人差し指をこめかみに当てて、とんとんと考える仕草をする。
「前に一回監督に連絡とるー言うて景ちゃんの携帯借りてどれだかわからへんって大騒ぎしたやん」
「ああ、鳳が熱射病で倒れたときな」
「あんときの記号、金のマークで俺とジローで大笑いだったっちゅー話や」
よく細かいことまで覚えている、と酔っている割に確かな記憶力に少し驚く。なあ、と忍足が不意に真顔になる。
「景ちゃん、携帯見して」
「何でお前に見せなきゃなんねえんだよ」
「ええやん、景ちゃんと俺の仲やし。別にみられて困るもんないやろ?」
関西人にプライバシーが無いというのは本当だったのか、と厭きれつつ、俺は着てきたコートにしまってあった薄型の携帯を取り出した。すぐに横から忍足が奪う。
「へえ、景ちゃん色の趣味変わったん? 昔は赤一筋やったやん」
「別に…、いろいろあったんだよ。それが1番薄型だしな」
忍足の狙ったような指摘に俺は一瞬うろたえた。この色にしたのは、俺なりに奴に対する義理立てのつもりだった。初めは、調子に乗って奴も地毛の色と同じオレンジのものを持たせたがったが、中高と着続けた白ランの色で取り敢えずは妥協した。忍足が片手で慣れたふうに携帯を開く。
「へえ、めっちゃ軽いんやね」
暫くかちかちとボタンを押したり、耳にあてるようにしてもてあそんでいた忍足が、急に噴き出す。
「なんだよ、」
「景ちゃん、これ、わかりやすすぎやで。こういうのはもうちょっとオブラートに包まんと」
「は?」
ひとしきり笑った後、忍足が通話ボタンを押した。そのまますぐに相手も対応したのか、会話が始まってしまった。
「もしもし、俺、忍足言います。覚えてます? そう、ジュニア選抜で一緒だった、忍足」
「おいてめえ、誰に電話して…!」
聞かなくても察しはついた。俺の頭から一気に血の気が引く。
「今跡部と飲んでるんやけど…じゃあ新宿まで迎えに行くで、それじゃあ、また」
俺が頭を抱えていると、忍足は満足したように俺に携帯を突き返した。それを無言で受け取る。
「呼んだのか…」
忍足はその質問には答えず、手をあげて店員を呼んだ。
「あんなあ、恋人っちゅうんは、あないにわかりやすいマークじゃ駄目やで? 大体景ちゃんにハートマークなんて、似合わへんのに」
うるせえ、と呟いたところで店員が小走りしてやってきた。
「芋焼酎のお湯割りひとつとー、あとから揚げとシーザーサラダよろしゅう。あ、景ちゃんは?」
「…刺身の盛り合わせ」
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跡部くんからの電話なんてそうそうあることじゃないから、なにかあるとは思ったけど、相手が忍足くんじゃまるで古傷を抉られている気分だった。あまり愉快な気分ではない。小さなことで嫉妬したり、喧嘩になったり、今までだってたくさんあった。やりあうたびに、もう十分だと思った。それでも心のどこかで、まだ跡部くんを信頼できない可哀そうで惨めな俺。昔の痴話喧嘩を、今更思い出す、こういうときだけ器用な記憶力に乾杯して、俺は自宅アパートを後にした。
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「忍足くんちに泊まったって、何それ」
普段から自分に無頓着で、高校に入ってからはいろんな人のうちに遊びに行ったりしていることを、俺は承知しているつもりだった。学校が違う分互いの生活に干渉できないし、しないのは百も承知なつもりでいて、しかし今回はさすがに相手が悪い。
「別に酔っちまったからそのまま世話になっただけだ。千鳥足で帰れって言うのか、お前は」
「いくらでもうちの人呼べたんじゃないの」
「何時だと思ってんだよ、俺だってそんなに横暴じゃねえし、常識ぐらいある」
暫く睨み合いが続いた。ここ最近跡部くんに会えなかったストレスも溜まっていた俺は、ついそんな噂信じていないくせに口にしてしまった。
「…まあ、いいんじゃないの。忍足くんと跡部くんってデキてるってもっぱらの噂だったしね」
「てめえ!」
跡部くんの拳は強烈だった。俺の右頬と鼻を強烈に打つ。すぐに俺の鼻からは鼻血が垂れた。つう、とくすぐったく垂れていくそれを俺は左手で拭う。殴られたからか、思考は随分冷静で、冷めた瞳で跡部くんを見つめた。
「ねえ、寝たの?」
俺の一言に、跡部くんは何も答えず立ち去った。
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コンビニに行こうと思って、玄関を開けたら無言で立ち尽くしている跡部がいた。しかも静かに泣いているのだから、これはホラー以外のなにものでもない。あまりのことに絶句してスニーカーの踵を潰している俺に、厚かましくも「入れろ」。その一言で俺はようやく現実に引き戻される。コンビニに行く気もすっかりそがれて、大人しく跡部を玄関に押し込んだ。高校に入ってアパートで独り暮らしを始めた俺のところへは、レギュラーのやつらがよく遊びに来ていた。それら全てを昨日ようやく追い払ったところなのに、また跡部が来ているのだから世話ないと思う。取り敢えず泣いている跡部を落ち着かせるために冷蔵庫から緑茶と、保冷剤を出してタオルで包んでやった。戻るとベットを背にして片膝を立てた跡部が俯いている。
「ほれ、これやるから飲め、で、こっちは目ぇ腫れるとあかんから、アイシングな」