トライアングル
無言で頷いて跡部はアイシングだけを受け取った。仕方がないので緑茶は近くのテーブルに置く。受け取ったところで使う気配のないアイシングを握りしめて、跡部は黙ったままだった。俺は横に座り込んで跡部の顔を覗いた。
「何があったん? ほれ、言うてみ?」
暫くの沈黙の後、ようやく跡部は重い口を開いた。既に冷静さを取り戻していると見え、口調にははっきりとしたいつもの跡部が見える。
「千石が、お前と寝たのかと聞いてきた」
「なんやそれ、あの噂、他校にまで流れてたんか」
はあ、と額に手を当ててため息をついた。下らない噂なんてお互い興味がないので黙認し合っていたが、千石の耳に入ったとなれば別だ。俺は二人の関係をどうこうしたい立場でもない。
「じゃあ景ちゃんここに居たらまずいんとちゃう? ちゃんと千石んとこ言って、ちゃうーって言わなあかんで」
「…疲れた」
跡部はそれきりまた黙ってしまった。はあ、と俺は腹をくくって跡部をベットに押し込んだ。俺もその横に入り込む。疲れている跡部は寝かせてしまった方がいい。
「なあ、景ちゃん、」
跡部は俺のよれたTシャツをしっかりつかんだ。俺は戸惑って跡部を見つめ直す。
「もう、嫌だ…」
切々とした言葉だった。いつも跡部は傷ついてばかりいる。跡部の話を聞くのには慣れていたが、跡部はお互いを傷つける原因は俺にあると、まだ気がつかない。だから無邪気なふりをして友人を続けるし、同じ布団で寝ることも厭わない。このまま気がつかないでほしいと願っていた。だから俺も手を出さないで来たと言うのに。そっと跡部の柔らかい髪に指を通した。また流れている涙の筋を、優しく拭ってやる。俺なら、やつにはない優しさを与えてやることが出来るのに。
「景ちゃん、謝らなあかんよ。明日、ちゃんと行くんやで」
答えはなかったが、暫くすると寝息が聞こえてきたので俺はそのままベットから抜け出した。噂をお互いにきっぱり否定できないのは、俺のやましい心持からだと気が付いていたが、気持ちを打ち明ける気がない以上、これは最後の優越感だと思って楽しみたかった。散々宍戸には偽善者だと罵られたが、俺は跡部のために、どこまでも偽善者で構わない。
*** *** *** *** *** ***
千石が新宿に着いたと連絡が入った。跡部が迎えに行こうと腰を浮かせたが、それを無理に座らせて制した。
「俺が迎えに行きたいねん、行かせて、な?」
両の手を合わせてウインクまで飛ばした俺を、気持ち悪いと一蹴したが、ふん、と鼻を鳴らして好きにしろと、跡部は追加の注文を取った。頼んでいる量がやたら多いのが気になったが、その店員と入れ替わりで俺は店の外に出る。夜風は飲みすぎた体にひんやりと気持ちが良い。いくら飲んでも簡単には酔わないザルだということはわかっているが、だからと言って体がまったく平気かと言えばそういうわけでもないらしい。若いからと飲むのは勝手だが、後のことを考えるとやはりそろそろ控えるということを学ぶべきだ。駅まではさほど距離はない。人の波を縫うようにして歩く。変に調子っぱずれな口笛を吹いていれば、酔っ払いだと向こうから避けてくれる。跡部に会うのは、もうこれを最後にしようと考えていた。だから、千石に会うというのはある意味賭けでもある。跡部が携帯を貸してくれなかったらそれで諦めようと思っていた。馬鹿みたいに警戒心が強いくせに、俺には携帯を簡単に渡してしまうところを見ると、俺は跡部の中でなかなかの地位を築いているらしい。空しい片思いはすっかり俺を保身に走らせた。近くにいないのは俺自身を守るためでもあった。偽善者は偽善者のままでいい。やたらと目立つオレンジ頭は、店の名前を聞いてあたりをつけていたのか、まっすぐこちらに向かって歩いてきていた。おーい、と手を挙げると、驚いたように1度立ち止まって、首をかしげた。俺が近付くと、ようやく本人と認めたらしい。
「どこのモデルさんかと思っちゃったよー、驚いたな」
「そらおーきに」
話すのは本当にジュニア選抜以来だ。高校に入って、跡部と付き合いだしてからこれまで、話には聞くものの、1度も姿を見たことはなかった。
「跡部くん、忍足くんのこと好きなんだね、空気が違った」
「またあ。一番好かれとるのは千石やろ。なにしろハートマークやし」
「ああ、あれ見たの。跡部くんああ見えて随分メルヘンだよね」
俺はなんとなく気が変わった。店とは反対の方向へ歩き出す。千石が不思議そうに尋ねる。
「あれ、店こっちじゃないの?」
「そうなんやけどな、少し…歩こか」
微笑むだけで返事らしい返事は返ってこなかった。
*** *** *** *** *** ***
千石も負けず劣らずな酒豪だったので、俺はてっきり2件目を探すことになると思っていたら、あっさり忍足が明日の新幹線で帰るなどと抜かしたので、そのまま店の前で忍足を見送った。飄々と下手糞な鼻歌を吹いて、今夜はどこに泊まるか聞かなかったが、大丈夫だろうかと、姿が見えなくなってから心配になった。千石が送ろうか、と促したので俺はその2歩後をついて歩き出した。
「忍足くん、面白い人だったね。今日、飲めてよかったよ」
「そりゃよかったな、てめえら馬鹿みたいに飲むから今度は俺抜きでやってくれ」
はっは、と乾いた笑いが零れたところで、千石は唐突にごめん、と呟いた。なんとなく帰りが遅い忍足に察してはいたので、俺は、うん、と短く返事をする。
「忍足くん、本当に跡部くんが好きなんだね」
「おう」
「もうずっと好きだったんだ、でも彼の意志は固いから、跡部くんには1度も手を出したことはないって言ってた」
「うん」
「ずっと、ずっと好きでいるって」
「…何が言いたいんだよ」
「忍足くんは、俺が思っているよりずっと本気だった。跡部くんは、いい人に好かれたね」
千石が立ち止まり、それに続いて俺も横に並んだ。
「幸せだ」
「…ああ」
それ以上の言葉なんか、今の俺が話せるわけもなく、そのまま夜道を2人無言で歩き続けた。とっくにアルコールなんて飛んでいる。俺はもう、多分2度と忍足に会えないことを予感していた。そういうときだけ、俺はコートに立つまだ幼かった俺たちを思い出す。それは千石にも侵入されない記憶の中の綺麗な場所で。一体どこで間違えてしまったのか、俺はわからないままだ。