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寂しい色の君へ

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真備と新入社員が、北へと旅立った。
私は最後まで諸兄に見送るように言ったのだが、彼は来なかった。
我侭な子どもが怒って拗ねたりするかと思って内心ヒヤヒヤしていたのだが、
私の予想に反して、真備は笑って「行ってくる」とだけ言った。
くるりと向けられたその背が大きくなったように見えて、私は少しだけ泣きたくなった。
そうやって新人だった子たちはいつの間にか成長していく。
いつも騒いで面倒ばかり持ってくる真備の根本的な性質は変らない。
だけどどこか、真備は変わったと思う。

(ねぇ諸兄、あんたはどう思う?)

言葉なりかけた声が喉の奥でつっかえてしまった。
諸兄がふぅ、と長い息を吐いた。彼の吸っていた煙草の匂いがあたりに広がる。
彼はいつものアパートに居なかった。祖父が生活している家に今は居る。
私はそのことをわかっていながら、一度アパートの方にも顔を出した。
呼び鈴を鳴らして、ポストにたくさん入ったチラシとかを眺めただけで、そこから去った。
何がしたかったのかはわからない。今、こうして彼の隣に立っている意味もわからない。
私は真備たちが出発したことを伝えた。諸兄はそれに対して短く「そうですか」と言うだけだった。
祖父が居るだろう、家の中には通されなかった。玄関の前で立ち話をしている状態だ。
風が強くて冷たい日だ。私はいつものスーツの上にジャケットを羽織っているが、彼は部屋着のみだ。
それはいつものスーツよりも確実に軽装で、見ているこっちが寒くなってくる。
諸兄は寒そうに腕をさすっていたが、帰れとは決して言わなかった。
私の言葉を待っているのか、それとも彼の言葉を待っているのか。

「嵐が去ったあとみたい」
「え?」
「不謹慎な、寂しさ」
「・・・あぁ、」

それは同意の声ではなくて納得の声。煙草を綺麗に指で挟んで彼は軽く笑う。
真備の隣に居る彼は、一緒になって騒いで(真備のせいなのだが)いつも不機嫌で苛々していた。
でも隣に真備の居ない諸兄は、ひどく穏やかで静かで、置いていかれたような目をする。
色んな出版社から追い出されていた、“新人潰し”の時期もこんな目をしていた。
私がソガノに誘ったときは、随分冷たい目の人だと思い込んでいて、気づいてやれなかった。
彼は無気力そうに無表情を保つことで、裏にある陰りに蓋をしていたのだ。

「俺は嵐がないほうが好きなんで」
(違う、あんたは置いていかれたんじゃない)
「気が抜けました」
(追いかける番が来たの)

(それを怖がっていては、駄目)

私はまた泣きそうになったのを、彼に気づかれないように目を逸らした。
唇をぎゅっと噛み締め、込み上がってきたものを何とか押さえ込む。
風が強く吹き込んだ。私は思わず目を瞑って、ついでに涙を攫って欲しいと願った。
目を開くと、顔を背けて肩を震わせながら笑っている諸兄が視界に入ってきた。

「大丈夫ですよ」
「へっ?」
「俺はちゃんと、行けます」

穏やかな視線が向けられる。ゆるく口の端を上げた彼は、ちゃんと笑っていた。
自虐的なものでもなく、心から。
私は少し驚いて、半開きの口のまま瞬きを繰り返してしまった。

「ただすこし、思い出しただけです」

昔を。


“神が世界から消えた”
今も彼は悪夢を見続けているのだろうか。彼の世界が終わった日のことを。
神の喪失は、即ち世界の終わりを意味する。

私はその頃の彼をよく知らない。知っている人が居るのかも知らない。
諸兄と初めて会ったのは、もう彼が扉を硬く閉ざしたあとだったから。
私は何もできなくて、何かする立場にもいなかった。最初から蚊帳の外だった。
編集長という私でも、ソガノミツネという一人の女も、彼は求めなかった。

たぶん彼が求めていたのは、たった一人。

もう手が届かなくて、手を伸ばすこともできなかったのだろう。
失ったという傷は何よりも深くて、何よりも冷たくて、何よりも、痛い。
私は数年かかってやっとそこまで気付けたのに、できることは何一つ無かった。
ごめんね、と心の中で呟きながら唇を噛み締めて待った。新しい才能を。


『橘!』


現れたのは本当に嵐みたいな子どもで、私は頭を抱えた。
でも芯の通った真っ直ぐなその心が、知らないうちに彼の心を溶かしていった。
おそらく本人も、勝手に開いていた扉を見て、大層驚いたことだろう。
口を開けば討論に、目が合えば闘争に。ありえないくらい騒がしくて楽しい日々を過ごした。
真備が旅立った今、こうやって振り返ってみると遠い日の思い出のようになっていて寂しい。
ほんの数日まで日常だったことが、今ではもう非日常へと変わっている。
もう私と諸兄を困らせる頭の痛い存在は、私たちのそばに居ない。
だけどこの胸を痛めたのはその事実ではなく、ぽつんと一人で立っている彼の横顔だった。

「諸兄」
「何ですか」
「弱音、吐きなさい」
「・・・はぁ?」
「編集長命令。」

私は下を向いたまま、彼の袖を掴みながら言った。この言葉に彼は弱いのを知っている。
袖を掴まれて一度は振り払おうと動いたが、私が強く掴み直すともう抗うことは無かった。
彼は代わりに盛大なため息をつく。私はどうしてもその顔が見ることができなくて俯いたまま。
私では、彼の寂しさとか悲しさとか、そういうものを紛らすことはできないだろう。
だけど愚痴ぐらいなら聞ける耳を持っている。言い方を変えればそれしか持っていない。
恋とか愛とか、そんな重たい感情を抱いているつもりは無かったが、彼のことは大事だった。
旅立っていった小さな背中を思い出す。彼のことも、もちろん大事に思っている。

(馬鹿みたいに騒いで、笑っていて欲しいのよ)

それで私は救われたのだから。何度も、何度も。
返したいのだ。その幸せを、貴方達にも。

「弱音ねぇ・・・」

顔を見ていなくても、その声色で彼が困惑していることはわかった。
でも後に引く気はない。私は少しだけ怯えながら言葉を待つ。何に怯えているのかはわからない。
息を吐いている音が聞こえて、少し遅れてから煙の匂いがした。苦い匂いだ。


「会いたくないと言えば、嘘になる」


よく意味がわからなくて、私は思わず顔を上げた。だけどすぐにそのことを後悔した。
視線を落とした諸兄の横顔には、いつか見たあの陰があった。
横目で私が顔を上げたことに気付くとすぐに振り払われてしまったが、私は見てしまった。
もう一度俯こうとも思った、いっそのこと目を閉じたいとも思った。
だけどそうしてしまえば、彼は言葉を飲み込むだろうから、絶対にしたくはない。
袖を掴む手の力を強くして、私は耐えた。溢れそうになった涙とか、いらない声とかを。


「今でも求めている、と認めることもできない」


扉を開けてくれた子どもには、いずれ出会えることだろう。
だけど己の扉を開けて欲しいと願った神様には。

そう言って口元に笑みを浮かべた諸兄を、不幸だとは思わない。
同情する気は無い。哀れむなど彼が最も忌み嫌うことだ。
おそらく今、泣いてしまえばそう見る気がした。それが怖いから泣けない。
私は真備がどんな気持ちで旅立ったのか考えてみた。
見送りにこなかった諸兄に対して、何も言わなかったのは。
作品名:寂しい色の君へ 作家名:しつ