水族館
「うわぁ……おいしそうですねぇ……」
目の前に広がる魔法のような光景に息を呑む。
ぺたりと張りつかせた両の手のひらが冷たかったけれど、それがまた心地よい。
外の暑さにうんざりしていた身にはちょうどいいくらいだった。
つるりとした表面に今にも頬を押しつけそうになっていると、あきれたような声が上から降ってくる。
「そないにじぃと見ても、食えんやざ」
驚くほど長身の男が、淡々とした声音で言った。
まとわりつかせた空気は、周りのにぎやかな喧騒に沈みそうなくらい低い。
というか、はっきりいって嫌そう・面倒そう・だるそうである。
いかにも話しかけにくそうな雰囲気をちらつかせた男に臆することもなく、日本は平然と笑った。
「えっ、いやですねぇ、それくらいわかってますよオランダさん! ここは水族館! お魚を食べるところじゃなくて、観るところですから!」
なんて自信満々に言って胸を張っている日本である。
確かにその言葉どおり、周りを照らす照明は極端に薄暗く、眼前にはいくつもの水槽がでんっとひかえていた。
水槽の中を泳ぐのは、カラフルな熱帯魚だったり、すいすいと動き回るイルカだったりとバラエティに富んでいる。
手を伸ばせば、特製の分厚いガラス板が、存在を主張していた。
その奥に広がるのは、青色の中に浮かび上がる別空間だ。
これはもう、どこからどう見ても水族館でしかありえない。
その証拠に、周り中家族連れやらカップルやらで大賑わいだった。
二人の話の途中にも大勢行き来しているから、時たま会話も聞き取れないくらいである。
オランダと呼ばれた男は、軽やかに力説する日本を見て、ため息にも似た声を出した。
「……よだれ」
「はっ……」
いったい何の話かとびくついて、思わず口元に手をやる。
すると、オランダから指摘されたとおり、よだれのようなものにふれて、またまたびくりとなってしまった。
公衆の面前でなんたる失態。
恥ずかしさのあまり一瞬で顔を赤くする日本に、オランダは再びため息を吐いて、懐に手を入れた。
そのまま何かを引き出して、眼前にずいと突きつけてくる。
それは何やら原色のちらつくタオルだった。
そこには白とオレンジの色をしたうさぎがでかでかとかわいらしく鎮座していたが、日本は何も言わずさらりと受け取る。
「あ、ありがとうございます……」
謙遜も遠慮もなく、ごく自然に礼を言って受け取っているからか、オランダは目を細めてどこか満足げな表情だ。
そのミニタオルを使って、それこそ遠慮なく口をふきながら、日本はにこにこと笑みを浮かべた。
「にしても、水族館なんて久しぶりです! 意外と楽しいですね。これは新聞屋さんに感謝しないといけません」
うきうきと言って上機嫌そうに水槽へと視線を戻す。
そしてまたきらきらとした目で魚を眺め始めた日本の背に、オランダのぼそりとした声が突き刺さった。
「アジ」
「えっ!?」
「イワシ」
「はっ!?」
「カニ」
「か、カカカカニですって!? ど、どこに……!?」
オランダのセリフのたび、そわそわとさまよわせていた視線を、カニの一言で一気に覚醒させ、日本はカカッと両目を見開く。
頭をぶんぶんと振って、何かを探すようなさまは、まさに血眼という言葉を彷彿とさせた。
と、不意にきゅぅるるるっという怪奇音が辺りに響きわたる。
それはむしろ殺気だち始めていた雰囲気を、あっさりと間抜けなものにしてのけた。
どこかしら白々とした空気が広がる。
だというのにオランダは笑みひとつ浮かべず、平然と肩をすくめて言う。
「どこかで腹の音しとるな」
「きょ、恐縮です……」
まるではるか遠くの事実を指摘するようなセリフを吐いて顔色ひとつ変えないから、こちらの方がいたたまれない。
日本は、真っ赤になった面をそっと伏せて言った。
その腹の音とやらが誰のものなのか激しく追及してほしくない。
その一心でどうにか引きつった笑いを浮かべると、日本はようやく面を上げて言った。
「あの、オランダさん、ちょっとお手洗い行ってまいりますね。こちらでお待ちくださいな」
「ん、わかった」
オランダはやっぱり何も言わずにうなずくと、すたすた歩いて壁に背をつける。
そこで日本を待とうという腹づもりなのだろう。
壁の花というにしては威圧感のありすぎるオランダを見て、これは早々に帰ってこねばなどと思いつつ。
日本はあたふたと背を返したのだった。
人の波をかき分けかき分け、ようやく目的の場所に到達するも、わきゃわきゃと人がいてまだ安心できない。
どうにかそのブロックをかいくぐって目的を達したときはほっとしてしまった。
オランダに借りたうさぎタオルで手をふきつつ、さて戻るかと改めて気合を入れる。
覚悟を決めて人の海の中に舞い戻る決意をした瞬間、日本はふと柳眉をひそめた。
「あ、あのぅ、すみません……?」
もごもごと口にしながら、さりげなく通り抜けようとするが、なぜか立ちふさがった壁がそれを許してくれない。
「あ、あの……ぅ?」
とうとう困りきった顔で首を傾げてしまった日本に、にやにやとした笑いが降りそそいだ。
「けっこーかわいいやん自分。俺と一緒にジンベエザメのえさやり観ぃひん?」
などとまあ、軽く化石になりそうな誘い文句をによによとぶつけてくるのは、限界寸前まで色を抜いたような茶髪の男である。
まるで気の抜けた炭酸のような頼りない声音と共に、なれなれしく日本の肩に手を回してこようとするから手が早い。
引きつった顔でさりげなく身を退こうとするが、相手は知らん顔だ。
こうなると日本は実に弱い。
もとより相手の強引さに腰が引けているから、すらすらと言い返せるわけなどないのだ。
「は、はぁ……間に合ってますが」
日本が必死に口にした言葉ですら、相手は軽く鼻で笑っただけだった。
「嘘吐きぃな。見とったけど、誰も待ってへんやん」
あっさり言い捨て、さらににじり寄ってくる。
確かに連れのオランダとは、ここより少し先のところで別れたために、その姿はどこにもない。
あの威圧的な長身がそばにいれば話はまた違ってくるだろうが、今はあいにく日本ひとりだった。
ひとりで全部対処せねばならないのだ。
その事実に一瞬で憂鬱になりつつ、日本は必死に声を上げた。
「い、いえ、本当にひとりではないんです。ですから、あなたとは……」
一緒に行けませんと言おうとして、すぐに言葉を呑み込んだ。
伸びてきた腕が、それこそなれなれしく日本の肩を抱き寄せたからだった。
びくりと反応してしまった身体を慌てて抑え込む。
うっかり内股を払ったあげく投げをかけてしまいそうになった自分を日本はおおいに恥じた。
仮にも自国の国民である。
それを理由もなくお手討ちにしようとするなんて恥ずかしい。
しかも、こんなに家族連れやらカップルやらがいる状態では、被害が確実に誰かに及ぶ。
そんな思慮の足りないことをちらりとでも考えてしまう自分が恥ずかしかった。
目の前に広がる魔法のような光景に息を呑む。
ぺたりと張りつかせた両の手のひらが冷たかったけれど、それがまた心地よい。
外の暑さにうんざりしていた身にはちょうどいいくらいだった。
つるりとした表面に今にも頬を押しつけそうになっていると、あきれたような声が上から降ってくる。
「そないにじぃと見ても、食えんやざ」
驚くほど長身の男が、淡々とした声音で言った。
まとわりつかせた空気は、周りのにぎやかな喧騒に沈みそうなくらい低い。
というか、はっきりいって嫌そう・面倒そう・だるそうである。
いかにも話しかけにくそうな雰囲気をちらつかせた男に臆することもなく、日本は平然と笑った。
「えっ、いやですねぇ、それくらいわかってますよオランダさん! ここは水族館! お魚を食べるところじゃなくて、観るところですから!」
なんて自信満々に言って胸を張っている日本である。
確かにその言葉どおり、周りを照らす照明は極端に薄暗く、眼前にはいくつもの水槽がでんっとひかえていた。
水槽の中を泳ぐのは、カラフルな熱帯魚だったり、すいすいと動き回るイルカだったりとバラエティに富んでいる。
手を伸ばせば、特製の分厚いガラス板が、存在を主張していた。
その奥に広がるのは、青色の中に浮かび上がる別空間だ。
これはもう、どこからどう見ても水族館でしかありえない。
その証拠に、周り中家族連れやらカップルやらで大賑わいだった。
二人の話の途中にも大勢行き来しているから、時たま会話も聞き取れないくらいである。
オランダと呼ばれた男は、軽やかに力説する日本を見て、ため息にも似た声を出した。
「……よだれ」
「はっ……」
いったい何の話かとびくついて、思わず口元に手をやる。
すると、オランダから指摘されたとおり、よだれのようなものにふれて、またまたびくりとなってしまった。
公衆の面前でなんたる失態。
恥ずかしさのあまり一瞬で顔を赤くする日本に、オランダは再びため息を吐いて、懐に手を入れた。
そのまま何かを引き出して、眼前にずいと突きつけてくる。
それは何やら原色のちらつくタオルだった。
そこには白とオレンジの色をしたうさぎがでかでかとかわいらしく鎮座していたが、日本は何も言わずさらりと受け取る。
「あ、ありがとうございます……」
謙遜も遠慮もなく、ごく自然に礼を言って受け取っているからか、オランダは目を細めてどこか満足げな表情だ。
そのミニタオルを使って、それこそ遠慮なく口をふきながら、日本はにこにこと笑みを浮かべた。
「にしても、水族館なんて久しぶりです! 意外と楽しいですね。これは新聞屋さんに感謝しないといけません」
うきうきと言って上機嫌そうに水槽へと視線を戻す。
そしてまたきらきらとした目で魚を眺め始めた日本の背に、オランダのぼそりとした声が突き刺さった。
「アジ」
「えっ!?」
「イワシ」
「はっ!?」
「カニ」
「か、カカカカニですって!? ど、どこに……!?」
オランダのセリフのたび、そわそわとさまよわせていた視線を、カニの一言で一気に覚醒させ、日本はカカッと両目を見開く。
頭をぶんぶんと振って、何かを探すようなさまは、まさに血眼という言葉を彷彿とさせた。
と、不意にきゅぅるるるっという怪奇音が辺りに響きわたる。
それはむしろ殺気だち始めていた雰囲気を、あっさりと間抜けなものにしてのけた。
どこかしら白々とした空気が広がる。
だというのにオランダは笑みひとつ浮かべず、平然と肩をすくめて言う。
「どこかで腹の音しとるな」
「きょ、恐縮です……」
まるではるか遠くの事実を指摘するようなセリフを吐いて顔色ひとつ変えないから、こちらの方がいたたまれない。
日本は、真っ赤になった面をそっと伏せて言った。
その腹の音とやらが誰のものなのか激しく追及してほしくない。
その一心でどうにか引きつった笑いを浮かべると、日本はようやく面を上げて言った。
「あの、オランダさん、ちょっとお手洗い行ってまいりますね。こちらでお待ちくださいな」
「ん、わかった」
オランダはやっぱり何も言わずにうなずくと、すたすた歩いて壁に背をつける。
そこで日本を待とうという腹づもりなのだろう。
壁の花というにしては威圧感のありすぎるオランダを見て、これは早々に帰ってこねばなどと思いつつ。
日本はあたふたと背を返したのだった。
人の波をかき分けかき分け、ようやく目的の場所に到達するも、わきゃわきゃと人がいてまだ安心できない。
どうにかそのブロックをかいくぐって目的を達したときはほっとしてしまった。
オランダに借りたうさぎタオルで手をふきつつ、さて戻るかと改めて気合を入れる。
覚悟を決めて人の海の中に舞い戻る決意をした瞬間、日本はふと柳眉をひそめた。
「あ、あのぅ、すみません……?」
もごもごと口にしながら、さりげなく通り抜けようとするが、なぜか立ちふさがった壁がそれを許してくれない。
「あ、あの……ぅ?」
とうとう困りきった顔で首を傾げてしまった日本に、にやにやとした笑いが降りそそいだ。
「けっこーかわいいやん自分。俺と一緒にジンベエザメのえさやり観ぃひん?」
などとまあ、軽く化石になりそうな誘い文句をによによとぶつけてくるのは、限界寸前まで色を抜いたような茶髪の男である。
まるで気の抜けた炭酸のような頼りない声音と共に、なれなれしく日本の肩に手を回してこようとするから手が早い。
引きつった顔でさりげなく身を退こうとするが、相手は知らん顔だ。
こうなると日本は実に弱い。
もとより相手の強引さに腰が引けているから、すらすらと言い返せるわけなどないのだ。
「は、はぁ……間に合ってますが」
日本が必死に口にした言葉ですら、相手は軽く鼻で笑っただけだった。
「嘘吐きぃな。見とったけど、誰も待ってへんやん」
あっさり言い捨て、さらににじり寄ってくる。
確かに連れのオランダとは、ここより少し先のところで別れたために、その姿はどこにもない。
あの威圧的な長身がそばにいれば話はまた違ってくるだろうが、今はあいにく日本ひとりだった。
ひとりで全部対処せねばならないのだ。
その事実に一瞬で憂鬱になりつつ、日本は必死に声を上げた。
「い、いえ、本当にひとりではないんです。ですから、あなたとは……」
一緒に行けませんと言おうとして、すぐに言葉を呑み込んだ。
伸びてきた腕が、それこそなれなれしく日本の肩を抱き寄せたからだった。
びくりと反応してしまった身体を慌てて抑え込む。
うっかり内股を払ったあげく投げをかけてしまいそうになった自分を日本はおおいに恥じた。
仮にも自国の国民である。
それを理由もなくお手討ちにしようとするなんて恥ずかしい。
しかも、こんなに家族連れやらカップルやらがいる状態では、被害が確実に誰かに及ぶ。
そんな思慮の足りないことをちらりとでも考えてしまう自分が恥ずかしかった。