花の咲く道
いつか、佐波守紅緒に問われた事を思い出す。あの時己が応えた言葉に今も変わりは無いが、今ならもっと力を込めて言う事が出来るだろう。七代千馗は確かに、雉明の唯一なのであると。
しかし彼に与えられた己の身がどんどん強欲になっていくように思われて、雉明は戸惑っていた。己の内に起こる変化があまりに急激で、劇的で、まだ頼りない精神がそれへ付いていかない気がした。
何故、七代が絡むと多くを望むようになってしまうのか。未来というものを雉明に見せてくれた、それだけで充分過ぎる程であるというのに。
「……………………白、七代は、此処に、来るだろうか?」
同じ空の色を眺めながら、白は呑気に欠伸を噛み潰した。
「昼になれば来るじゃろう。彼奴はかなりうろうろと歩きまわるからの」
「そうか…………、来てくれるといいな」
「来ると言うておるのに」
やはりまた望んでしまった。雉明はそんな己に苦笑するしか無かった。
午前の時間が終了する鐘の音が校内に響き。
途端にざわざわと人間の気配が増えていく。それでも、もう十二月の下旬ともなれば屋上にまで上がってくる生徒は居ないようだ。それに、今日は終業式なのである。
「なあ、白、本当に七代は、」
突然何だか心細くなって、雉明が再び白へ言い掛けた時。屋上の扉ががらりと開かれた。
「、なんか今、俺の話とかした?」
其処に立っているのは紛れも無い。雉明の待っていた人物、七代千馗である。
「七代、………………」
「わっ、そ、其方か、ま、全く、脅かすでない!」
万一誰か他の生徒たちが上ってきた際、白ひとりであれば飛んで逃げられるが、雉明と一緒ではそうはいかないので。見つからぬようにするのに、白はかなり神経を尖らせていたのだが。不意の訪問者は他ならぬ、彼らのあるじだった。
黒い色の制服の裾と、艶のある黒い髪が冷たい風に流されている。
「式に出られなかったようじゃが……構わなかったのかえ?」
気を落ち着かせながらとりあえず白は、先刻の佐波守紅緒との事を訊ねた。七代は軽く笑って、雉明の傍らに腰を下ろす。
「構わなくはないけど…………まあ、大丈夫」
「そうか」
「雉明も来たんだな」
七代が手を伸ばすので、雉明は塀から降りて七代の隣に同じく腰を落ち着けた。風に冷やされた雉明の頬に七代の指先が触れる。
「彼奴がついてきた所為で道中、大変であったわ」
「まー、そうだろうな、昼休みに出歩いてても富樫さん、いい顔しないしな。お疲れさん。けど、お前が常識を重んじてくれて俺は嬉しいよ」
そう言いながら七代は、手に持っていたビニール袋から菓子の袋を取り出して白へ手渡した。
「……面倒は避けた方が賢明だからの。妾とて考えておる、これは生活の知恵じゃ」
「ちょっと違うけど……その心意気は悪くないねえ」
白は憮然とした表情の奥に喜びを隠しながら、黙々と菓子の袋を開封している。油の濃い匂いが風に混じり込んだ。七代は白が来る事を知っていて買っておいたのだろうかと雉明は思った。思いながら、七代の方へ向き直る。
「…………七代、きみの関係者だからといって、学校へ入ったりしてはいけなかったんだな。知らなかった。きみには迷惑をかけないようにするから」
眉を下げて言うと、七代は雉明の頭をふわふわと撫でた。
「別に、お前のする事で俺の迷惑になるような事はあんまり無いけどな。勝手に、俺にお前を殺させようとするとか、そういう事以外はさ」
そう言われ。雉明が小さくなる。
「………………………………すまない。だが、おれも、きみを絶対に殺したくはなかったから」
「それはまあ、万歩譲って判るとしてもだな…………ちゃんと、ほんとに悪かったって心底思えよ?」
「もっと深く、考えるようにする」
「うん、是非そうして」
間近で七代が、雉明へ、笑いかけている。七代の笑み。雉明の眼は今も、それを、確かに映しているのだ。
「七代」
彼の名を呼んでみる。
「何?」
眼前の彼が自分の声に応える。何気無いこれは奇跡である。
「…………きみの黒い眼に、おれの姿が映っている。恐らく、おれの眼にも今きみが映っているんだろう。それが、見たかった。そして、きみがおれの声に応えるのを聞きたかった」
取り留めの無い事を言っている自覚はあった、己の言葉に意味が無い事も。けれどそれが雉明の素直な気持ちなのである。それが唇から零れ落ちただけだ。
「雉明」
彼の声音が、己の名を形成して耳へ届く。それはじわりと鼓膜に染みて、温かくなる。声という音が、温度を発する事など、雉明は今まで知らなかった。
「お前は俺の眼の前に居るし、俺はお前の眼の前に居る。確かに居る。それ以外を俺は願わないし、認めないからな。お前が此処に居るのは当たり前なんだよ、雉明」
七代から流れ込む強い願い。希望。欲する気持ち。それは雉明を圧倒する。
七代の眼には滅亡など一切見えないし、見ないのだろう。己の抱く望みを叶える為だけに七代は腕を伸ばし、伸ばしながら、雉明や白を救ってくれる。
七代千馗は本当にすごい人間だ。
「………………おれは、きみの傍に居ると、多くを望み過ぎる気がする。これではいけないと思うのに。きみがあまりに温かいから、それに甘え過ぎているんだろうか」
雉明の頬のおもてをするすると撫でていく七代の指が、温くて酷く離れ難い。
こうして己が七代千馗の傍らに在りたいとこれ程までに思うのは、この男が己のあるじで、己が札である所為なのかと雉明は思う。傍に居たいと思うのは札として引き寄せられているだけなのかと。札に擦り込まれた役目が雉明をそうさせるのかと。その疑問は時折雉明の胸郭を掠めて影を作りはしたがしかし雉明は七代を眺めるうちに、ただそう感じる己の感覚だけを信じようと思い始めた。
どちらでも構わない。
己が七代千馗の傍らに居るなら。己の抱く気持ちの正体がどちらであったとしても。
雉明の言に、また七代は笑った。
「いいんじゃない…………ずうっとお前の望みってのは不穏なもんだったんだから、それ以外の違った望みを持ってくれる方が俺は嬉しいけどな。それが俺に叶えられる範囲なら、お安い御用で叶えてやるから気にすんな」
そう言って。七代は何でも無いというように、雉明へ微笑んでいる。
「とりあえず……俺の声が聞きたいってんなら、今から隣で喋り続けるけど」
七代が本当にそうしそうな気がしたので。雉明はつられて笑った。
「そうか……………………、どうしておれが望み過ぎてしまうのか、判った気がする」
雉明の視界の中で、七代は首を傾げている。張本人のその様子に、雉明の笑みへ柔らかい苦みが落ちた。七代自身にはその自覚が無いのだろうか、本当に。
「七代、きっと、それは、きみの所為だ」
きみがそうやって、すぐにおれの望みを叶えてくれるから
だから、おれはもっと、と、多くを望んでしまうのかも知れない
けれどやはりそれではいけないと思うので。とりあえず、雉明は自分から七代の頬に指を伸ばしてみた。
七代千馗に触れたいという、さしあたっての己の望みを己自身の手で叶える為に。