花の咲く道
「まさか。悪事を働いたわけでもないのに捕まえられる筈が無かろう。呼び止められたり怪しまれたりする事はあったがのう…………しかし、彼奴はかなり厳しいが、それでも千馗には一目置いておるのだぞ」
そう言って何処か自慢気な顔をする。その白に、雉明も少し嬉しくなった。
「そう、なのか……さすが、七代だな」
「それくらいは当然じゃ、我らがあるじだからの」
ふたりで身を寄せ、富樫花子と部下の坂口が通り過ぎるのを待ち。それから再び歩き出した。
「学生、とは、案外と制約が多いんだな、彼らを見ているとあまりそういう風には思えないんだが」
言われてみれば、通りには学生らしき子供の影は見当たらない。
「そこが何とも不思議なところよ。学校、というものの中にも規則が多いしのう。あんなにも自由に見えて、その実、そうでもないそうじゃ。尤も、決まりがあるからといってその全てを守り、従うものばかりでは無いようだがの」
「そうなのか」
「千馗とて、守っておらぬぞ。授業を受けねばならぬ時刻にこっそりと出歩いたり、眠ったり、書物を読んだりしておるからな」
成程、七代は本を読むのが好きだと言っていた。雉明は彼が字を追う姿を想像する。
「守らないと、どうなる?」
「まあ、朝子なぞに知れるとやはり叱られたり、何か罰を科せられたりするらしいが」
「ばつ?」
白の言葉に対し、さすがに雉明も肝の冷える心持だったのだが。
「うむ…………妾もよくは知らぬが、掃除であったり、しゅくだいを増やされる、とか」
首を捻る白の答えが雉明の考えたものとは違っていたようだったので胸を撫で下ろした。
「ああ、閉じ込められたり打たれたりするわけじゃないんだな、安心した」
「ううむ、そんな罰は未だ妾は見た事が無、…………、……ああ、そういえば壇が牧村と言ったか、女の教師から殴られているのを見た事があるが、あれはそうだったのかのう?」
余程強く殴られていたのか、思い出しているらしい白は痛そうな顔で眉を顰めている。やはり打たれる事もあるとは。街中で見掛けたり、七代千馗の周囲に居る学生たちは皆一様に楽しそうに見えたのだが、学校の規則というものは想像する以上に実は厳しいものなのかも知れないと雉明は考えた。
「…………壇といえば……彼は先刻の警察の女性にも捕まっていたと言っていたな。大丈夫なんだろうか……」
「さあ…………千馗の一番近くに居るのだし、大丈夫であって貰わねば困るがのう」
「七代と特に親しいのなら、彼が傷付けば七代も悲しむだろうな……七代も勿論だが、彼も、己の身は大事にして欲しい」
「まあ、丈夫そうな男じゃ、大丈夫であろう」
「そうか、だったらいいんだが」
その後、雉明はもうひとつの面倒である『鬼印盗賊団下っ端』について、声を掛けられても応えぬようにと白から教えられた。
鬼印盗賊団といえば筑紫信維が弄っていて、今は七代千馗の許で力を貸しているものたち、と雉明は認識していたのだが。幹部が敵でなくなったからといって、団員全てが無害になったわけではないのだと白は言い。個人個人の意志というものが存在するのだからそれも当然の事かと雉明は思う。
本当に、人間というものは、ひどく複雑で、それゆえにひどく惹かれる。
歩きながら、雉明は突然、七代の顔を早く見たいと思った。
鴉乃杜学園に着いたら着いたで、侵入する経路について考えねばならなかった。
「ううう、妾ひとりなら…………第一其方は目立ち過ぎるのじゃ!」
同じ台詞をもう何度言われた事だろう。そう思いながら雉明は、校舎の裏側へ回っていく。
「この金網を越えていけば…………、このまま上れば屋上に出られるし、人目にもつかないんじゃないかと思うが、白?」
「…………うむ……、まあ、上るのは其方だけじゃがな。そこまでは付き合い切れぬ、妾は飛んで上まで行くからの」
「わかった」
「しかし校舎の中には教師も生徒も居るのじゃ、上っている姿をくれぐれも見つかるでないぞ?」
「気をつける」
「うむ、くれぐれもな」
何度も釘を刺し、白い鴉はふわりと空へ舞い上がっていく。青い色の空へ浮かぶ白い色。
それを見送り、さて、と雉明は足場になり得そうな部分を探した。
鴉乃杜学園校舎の屋上は、風がうまく吹き抜けて、とても気持ちのいい場所だった。風に色の薄い髪を任せながら、雉明は自然と微笑んだ。
「空の色も見渡せて、街の姿も眺められる…………風も気持ちがいいし、いいところだな、此処は」
何より、此処には七代千馗が居るのである。七代が通い、笑い、長い時を過ごす場所。そう思えばそれだけで己の事のように愛着が湧いてくる。
ふん、と白は鼻を鳴らす。
「まあ、こうばいは悪くないが」
「……こうばい、というと、店か?」
「品揃えがなかなか良いのじゃ」
「そうか」
焼きそばパンも販売しているのだろうかと雉明は考えている。
「そうそう、たいいくの授業があると、此処からでも千馗の姿が見えるのじゃぞ。以前、妾もやきゅうをしているのを見てな。あれはなかなか楽しかったのじゃ、千馗と壇は違う組に分かれた方が見応えがあって良い。めがほんを使えればもっと面白かったのにのう、残念な事じゃ」
思い出しながら白はうっとりと溜息を吐いている。雉明は、コンクリートに腰を掛けて校庭を見下ろしてみた。
「やきゅう、といえば…………九名ずつ攻守に分かれて交互に得点を争う球技、だったか。それを、七代が?」
「うむ。今日はしゅうぎょうしきとやらで授業が無いのが残念じゃな」
「七代は、身体を動かすのは面倒だと言っていたが……」
「ふふ、あれは面倒だ何だと言ってはいても、結局は力を抜けぬ男じゃ。それに壇が抜かせてくれぬからの」
「なるほど…………、おれも、見てみたいな」
微笑みながら雉明は、己の内を眺めて少し瞼を伏せた。
七代の傍に居ると、どうしても腹の底から欲が湧いてしまう。
もっと傍に居たいとか。もっと声を聞きたいとか。もっと色々な事を知りたいとか。どうして、こんなにも多くの事を求めてしまうのだろう。
初めて七代千馗に会って、そして別れ、今まで己がしてきた事といえば、己を殺す為の事ばかりで。そうしなければと思い続けていたのに、そうするべきだったのに、彼は雉明のそれを打ち砕いた。粉々に砕いて、その中から、雉明の本当の望みを決して見逃さずに拾い上げてくれた。終わらぬ悲嘆の中で己の死を願いながら、七代千馗という男に出会った所為で灯ってしまったどうしようもない望みを抱き。己の死がこの男のいのちを繋げる事になるのなら、死ぬ事への異論など有り得なかった。むしろそれこそが雉明の本望である。
けれど。
己の底に灯った本当の希望を、雉明は眠らせる事が終ぞ出来なかった。最後の瞬間まで。
七代千馗はそれを、本当に出鱈目な願いを、笑って叶えてくれたのである。
彼は、雉明の願いを叶えたのではないと言う。叶えたのは、自分の願いだと。
その結果、途切れる筈だった雉明の道に先が出来、未来というものが雉明を迎えた。雉明が此処に居るのは七代千馗のお陰である。此処に在る己は全て七代のものだ。