三毛猫シリーズ①
解けていく、崩れていく、消えていく、忘れてしまう。まるで脳が記憶を残すことを拒絶するかのように。するりするする、この手の指の隙間から、さらさらと。記憶とはこんな砂のように脆いものだっただろうか。
あの日、あんたはここで何か言っただろう?よく思い出せないんだ。あの横顔は決してこちらを見ない。小さな声で、でも聞こえる声で、呟いたその声は何と言っただろう。秋が近い匂いがする。じっとりと纏わりつくような感触も刺すように冷えた心地もない風は、秋のものだ。その風を頬に受けながら俺は突っ立っていた。あんたは縁側に座っていた。思い返せば穏やかではない俺達が、どうしてあんなにも穏やかな風を感じていたのか。それさえもわからない。同じ形で同じ色で全く同じはずの隊服を着ていても、何故ここまで違うのだろうといつも思っていた。いつもよりもひどく苦々しい煙草の煙を舌で転がしながら、その味を自分の顔にわかりやすく浮かべていた。横顔は遠くを見ている。その足元には小さな野良猫が数匹遊んでいる。他の隊士には寄り付かない猫だ。
すうっと切れるあの目がこちらを向くと俺の記憶は砕け散る。
そこでいつも、目が覚める。
--------
そこは先の謀反において、首謀者である人が使っていた部屋だった。皆がなるべく近づかないようにしていることも、話題に出さないようにしているのも、知っている。だけど俺は何となく見ない振りを続けることが出来なくて、時々覗きに行っていた。手が空いている時に寄ってみたり、少し汚れてきたように見えたら軽く掃除をしてみたり。そのことに深い意味はない。おそらく誰かに見られても気付かれても咎められることはないだろう。ただどうしてか、あの部屋の存在は胸が痛む。
誰もが避ける、見ないようにしている。
そんな状況の中、部屋の前で副長の姿を見かけたときは、すごくすごく、どきりとした。
「出入りしている跡があると思ったら・・・お前か」
「いや、その、これは・・・!」
「ビビんな、説教しに来た訳じゃねぇ」
袋に入った煮干を掲げながら、土方さんはいつもの仏頂面でそう言った。その煮干があまりにも彼に似合わないものなので、俺は怒られないことにほっとしながらも首を傾げてしまった。彼もそんな俺の様子に気付いたのか、ふっと軽く笑ってから庭のほうに目をやり、俺もその視線を追う。すると少し離れたところに数匹の野良猫が居るのが見えたので、煮干の理由はすぐにわかった。土方さんはおもむろに袋の中から煮干を無造作に取り出して放り投げたので、ぎょっとした。鳥に餌をやるようなやり方だったが、特に何も言わないことにした。言ったら怒られそうという恐怖があったからだ。
「お前、これに餌やってるか」
「あ、いえ、直接あげようとしたら逃げられちゃって・・・」
「ふうん、野良猫のくせに生意気だな」
「そこら辺に置いておけば勝手に食べるみたいですけど」
よく見れば、野良猫たちは縁側から近くに転がった煮干には一切近づいていない。猫達の方まで飛ばされていった煮干にだけ口をつけている。物欲しそうな目をこちらに向けるが寄って来る気配はない。自分が餌を与えようとしたときもこんな感じであった。しゃがみながら、おいでおいでと呼んでみても一切近づかない。野良猫の警戒心が強いというのは聞いたことがあるが、この猫たちは少し前まで人から餌をもらっていたはずだった。その光景を何度も見たわけではないが、確かに野良猫たちがあの人の手から餌を食べていたのを見たことがある。
「わかるんだろうな、俺が人殺しだから」
ここに居る人間は、言い方は悪いが人を斬って生きている者たちだ。彼が特別“人殺し”と評されることはない。皆が皆、自分の腕とこの国の未来を信じて集まった。その信念のもと刀を握っている。それが美しいという人も居れば汚れているという人も居るだろう。誰からも等しい評価が得られるなど思っては居ない。だから今更だ、人殺しだろうか人斬りだろうが。自分達は刀を握っていなければ生きられないのだ。ではなぜ、彼はこんなにも苦々しく人殺しなどと口にするのか。俺にはわかってしまった。他の人が気付くかはわからない、だけどきっと間違っていない。この部屋に居た人、野良猫に餌をあげていた人のことを思い出す。俺はその人の最後を人伝に聞いた。最後に伊東さんを斬ったのは土方さんだった、と。
「貰いすぎたな、後はお前がやっといてくれや」
煮干の袋を俺に押し付けて、彼は空いた手で煙草を吸い始めた。煮干の匂いよりこっちのほうが彼に似合っている。一本吸い終わる前に煙草を咥えなおして、彼は腰を上げた。音もなく立ち上がり、音もなくここから去ろうとしている。俺はどうしても彼を引き止めなければならない気がして、座ったまま必死で彼の服の裾を掴もうとした。しかしそうまでして何を言えばいいのかも何をすればいいのかもわからなくて、伸ばした手は彼に届かなかった。僅か数センチという距離が途方もないくらい遠くに感じられる。哀れな手は行き場を失い彷徨う。沢山のものを拒絶した背中を向けられる。俺はその背を見ながら空を掴む代わりに煮干の袋を握りしめた。
彼がどんな気持ちで猫に餌をあげようと思ったのかなんてわからない。だけど吐き捨てるように人殺し、と呟いた彼の気持ちは何となくわかるような気がした。誰も口にはしないがきっと誰もが思っている。最後は仕方がなかった、あぁするしかなかった。生き残ったとして、謀反を起こしたあの人にどんな道が用意されていただろう。もし仮に組の者たちがあの人の罪を許したとしても、上の連中が何を言うのかなんて皆がわかっている。時間が戻せるのならばもっと前、ずうっと昔に戻さなければいけなかったのだ。前でも後でも時間は戻らない。結末は悲しくても辛くてもこれしかなかった。残されていなかったのだ。彼のせいではない。誰も彼を責めない。だけど彼は自分をひどく責めているようだった。沢山のものを拒絶して、沢山のものを背負ったあの背中がそう語っている。
猫の鳴き声がした。
程近い場所から聞こえたので驚いて庭を見ると、縁側のすぐ近くに三毛猫が来ていた。ずっとこちら側に近づかなかった猫がこんなところまで来たことにも驚いたが、俺が目を見開いたのには別の理由がある。三毛猫の真ん丸い目が見ているのは煮干を持っている俺ではなく、立ち去ろうとしていた土方さんだった。それを見下ろして呆けたままでいる土方さんを笑うように、三毛猫がもう一つ媚びるように鳴いた。俺は慌てて彼のもとに駆け寄って、袋から煮干を取り出した。
「・・・土方さん!早く早く!」
「お、おぅ」
ほとんど強引に彼の手に煮干を握らせると、俺の勢いに押されて少し動揺しながらも縁側に座った。先程までの警戒した様子が嘘のように、三毛猫はするりと縁側に乗り込んで彼の隣に立つとまた鳴いた。そして自分の手から猫に餌をあげたときの土方さんの横顔を、俺は決して忘れないだろう。
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あぁ俺は、やっぱりあんたのことが嫌いだ。あんたはいつだって他人を拒絶していたくせに、どうして、どうしてあの日。横顔がゆっくりと口を開く。その一字一句が今度はきれいに再生される。
あの日、あんたはここで何か言っただろう?よく思い出せないんだ。あの横顔は決してこちらを見ない。小さな声で、でも聞こえる声で、呟いたその声は何と言っただろう。秋が近い匂いがする。じっとりと纏わりつくような感触も刺すように冷えた心地もない風は、秋のものだ。その風を頬に受けながら俺は突っ立っていた。あんたは縁側に座っていた。思い返せば穏やかではない俺達が、どうしてあんなにも穏やかな風を感じていたのか。それさえもわからない。同じ形で同じ色で全く同じはずの隊服を着ていても、何故ここまで違うのだろうといつも思っていた。いつもよりもひどく苦々しい煙草の煙を舌で転がしながら、その味を自分の顔にわかりやすく浮かべていた。横顔は遠くを見ている。その足元には小さな野良猫が数匹遊んでいる。他の隊士には寄り付かない猫だ。
すうっと切れるあの目がこちらを向くと俺の記憶は砕け散る。
そこでいつも、目が覚める。
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そこは先の謀反において、首謀者である人が使っていた部屋だった。皆がなるべく近づかないようにしていることも、話題に出さないようにしているのも、知っている。だけど俺は何となく見ない振りを続けることが出来なくて、時々覗きに行っていた。手が空いている時に寄ってみたり、少し汚れてきたように見えたら軽く掃除をしてみたり。そのことに深い意味はない。おそらく誰かに見られても気付かれても咎められることはないだろう。ただどうしてか、あの部屋の存在は胸が痛む。
誰もが避ける、見ないようにしている。
そんな状況の中、部屋の前で副長の姿を見かけたときは、すごくすごく、どきりとした。
「出入りしている跡があると思ったら・・・お前か」
「いや、その、これは・・・!」
「ビビんな、説教しに来た訳じゃねぇ」
袋に入った煮干を掲げながら、土方さんはいつもの仏頂面でそう言った。その煮干があまりにも彼に似合わないものなので、俺は怒られないことにほっとしながらも首を傾げてしまった。彼もそんな俺の様子に気付いたのか、ふっと軽く笑ってから庭のほうに目をやり、俺もその視線を追う。すると少し離れたところに数匹の野良猫が居るのが見えたので、煮干の理由はすぐにわかった。土方さんはおもむろに袋の中から煮干を無造作に取り出して放り投げたので、ぎょっとした。鳥に餌をやるようなやり方だったが、特に何も言わないことにした。言ったら怒られそうという恐怖があったからだ。
「お前、これに餌やってるか」
「あ、いえ、直接あげようとしたら逃げられちゃって・・・」
「ふうん、野良猫のくせに生意気だな」
「そこら辺に置いておけば勝手に食べるみたいですけど」
よく見れば、野良猫たちは縁側から近くに転がった煮干には一切近づいていない。猫達の方まで飛ばされていった煮干にだけ口をつけている。物欲しそうな目をこちらに向けるが寄って来る気配はない。自分が餌を与えようとしたときもこんな感じであった。しゃがみながら、おいでおいでと呼んでみても一切近づかない。野良猫の警戒心が強いというのは聞いたことがあるが、この猫たちは少し前まで人から餌をもらっていたはずだった。その光景を何度も見たわけではないが、確かに野良猫たちがあの人の手から餌を食べていたのを見たことがある。
「わかるんだろうな、俺が人殺しだから」
ここに居る人間は、言い方は悪いが人を斬って生きている者たちだ。彼が特別“人殺し”と評されることはない。皆が皆、自分の腕とこの国の未来を信じて集まった。その信念のもと刀を握っている。それが美しいという人も居れば汚れているという人も居るだろう。誰からも等しい評価が得られるなど思っては居ない。だから今更だ、人殺しだろうか人斬りだろうが。自分達は刀を握っていなければ生きられないのだ。ではなぜ、彼はこんなにも苦々しく人殺しなどと口にするのか。俺にはわかってしまった。他の人が気付くかはわからない、だけどきっと間違っていない。この部屋に居た人、野良猫に餌をあげていた人のことを思い出す。俺はその人の最後を人伝に聞いた。最後に伊東さんを斬ったのは土方さんだった、と。
「貰いすぎたな、後はお前がやっといてくれや」
煮干の袋を俺に押し付けて、彼は空いた手で煙草を吸い始めた。煮干の匂いよりこっちのほうが彼に似合っている。一本吸い終わる前に煙草を咥えなおして、彼は腰を上げた。音もなく立ち上がり、音もなくここから去ろうとしている。俺はどうしても彼を引き止めなければならない気がして、座ったまま必死で彼の服の裾を掴もうとした。しかしそうまでして何を言えばいいのかも何をすればいいのかもわからなくて、伸ばした手は彼に届かなかった。僅か数センチという距離が途方もないくらい遠くに感じられる。哀れな手は行き場を失い彷徨う。沢山のものを拒絶した背中を向けられる。俺はその背を見ながら空を掴む代わりに煮干の袋を握りしめた。
彼がどんな気持ちで猫に餌をあげようと思ったのかなんてわからない。だけど吐き捨てるように人殺し、と呟いた彼の気持ちは何となくわかるような気がした。誰も口にはしないがきっと誰もが思っている。最後は仕方がなかった、あぁするしかなかった。生き残ったとして、謀反を起こしたあの人にどんな道が用意されていただろう。もし仮に組の者たちがあの人の罪を許したとしても、上の連中が何を言うのかなんて皆がわかっている。時間が戻せるのならばもっと前、ずうっと昔に戻さなければいけなかったのだ。前でも後でも時間は戻らない。結末は悲しくても辛くてもこれしかなかった。残されていなかったのだ。彼のせいではない。誰も彼を責めない。だけど彼は自分をひどく責めているようだった。沢山のものを拒絶して、沢山のものを背負ったあの背中がそう語っている。
猫の鳴き声がした。
程近い場所から聞こえたので驚いて庭を見ると、縁側のすぐ近くに三毛猫が来ていた。ずっとこちら側に近づかなかった猫がこんなところまで来たことにも驚いたが、俺が目を見開いたのには別の理由がある。三毛猫の真ん丸い目が見ているのは煮干を持っている俺ではなく、立ち去ろうとしていた土方さんだった。それを見下ろして呆けたままでいる土方さんを笑うように、三毛猫がもう一つ媚びるように鳴いた。俺は慌てて彼のもとに駆け寄って、袋から煮干を取り出した。
「・・・土方さん!早く早く!」
「お、おぅ」
ほとんど強引に彼の手に煮干を握らせると、俺の勢いに押されて少し動揺しながらも縁側に座った。先程までの警戒した様子が嘘のように、三毛猫はするりと縁側に乗り込んで彼の隣に立つとまた鳴いた。そして自分の手から猫に餌をあげたときの土方さんの横顔を、俺は決して忘れないだろう。
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あぁ俺は、やっぱりあんたのことが嫌いだ。あんたはいつだって他人を拒絶していたくせに、どうして、どうしてあの日。横顔がゆっくりと口を開く。その一字一句が今度はきれいに再生される。