風と花と二十三の私と
女神は教皇の間の奥に位置する神殿にお住まいになっている、ことになっている。女神の顔を見た人間は一人もいない。
その訳を説明するには、まず13年前に起こった事件を語ることから始めなければならない。射手座のアイオロスが錯乱し、女神を御寝所から連れだして殺害しようとしたところを山羊座のシュラに制裁された事件。それ以降、女神の御身を護るためという名目で、女神に拝謁できるのは教皇だけになった。俺たち黄金聖闘士でさえ直接のお目通りは叶わない。もっとも、会えないのは当たり前なんだ。繰り返すが女神なんて実際は居やしない。サガが殺したんだから。
13年前の真実はこうだ。アイオロスは女神を殺そうとしたのではなく、サガから女神を護ろうとした。彼がサガに勝利していれば、今頃は逆賊でなく英雄と呼ばれていただろうに。彼の弟だって、逆賊の弟として不当な扱いを受けることなく、英雄の弟として遇されていただろうに。結局アイオロスは女神を抱いたまま彼女と共に野垂れ死んだのだろうから、どうしようもない。正義は勝者のものだ。語る言葉を持たない敗者は歴史の陰に消え去るのみ。勝者でも敗者でもない俺は、勝者の傍らで口を噤み生きている。自らの正義を信じながら。
そう、俺は俺の正義を信じている。俺がサガに従ったのは、元をただせばムウや老師が声を挙げサガを断罪しないのと同じ理由からだ。今サガを失えば、聖域はどうなる。俺たち黄金聖闘士には、死んだアイオロスを除けば、サガ以外に聖域を統括できる能力をもった奴なんていない。俺たちにできる仕事といったら、せいぜい正義の名の下に外敵と戦って凱旋することくらいだ。教皇も、アイオロスも、女神さえ、もういない。これでサガまでいなくなったら、しかもサガがこの三人を殺して偽りの教皇を演じていることが知れたら、聖域は簡単に、微塵もなく、壊れる。聖闘士の歴史まで潰えかねない。だから俺はサガに従う。サガがサガであることが知られないよう、サガを護る。それが正義だと、地上を護る行為の一端に属していると、俺は信じる。
サガ自身が正義であるかどうかについて、俺は考えるのを止めた。サガから暗殺の勅命を受けたとき、ターゲットに関連する書類を閲覧させてもらったことがある。それらを確認した限りでは、彼は聖域を護るための必要最低限数しか粛正していないようだが。それでも、ひとごろしを悪と規定するのなら、サガは弁明のしようもなく悪だ。勿論、実行犯の俺だって悪。「私の目から見た教皇は正義」と言って憚らないシャカの奴は、どこまで何をご存知なんだか。
断っておくが、俺はシャカのことを馬鹿にしたいわけじゃない。奴の言葉は、一面では真理を突いてもいる。絶対の正義も絶対の悪も存在しない。その理屈でいけば、地上を護ろうとした結果、女神への凶行に及ばざるを得なかったサガは正義なのだろう。女神を抱いて死んだアイオロスも、アイオロスを殺したシュラも、サガが何をしてきたのかを知りながら彼に従っている俺も、軒並み正義。我が女神アテナと神話の時代から闘い続けてきた海王ポセイドンや冥王ハーデスだって、正義。俺の思想は聖闘士として極北に位置しているのだろうが、俺たち一人一人の愛するものと護りたいものが同じではない以上、正義だって同じものであるはずがない。ポセイドンやハーデスが俺にとって敵なのは、奴らの正義が俺にとっての正義でないからにすぎない。誰にも自分だけの正義がある。そうでなければ生きていけない。自分の正義が信じられないなら死ぬしかない。アイオロスを殺した自分と折り合いが付けられなくなって、半分死んだようになったシュラみたいに。
アフロディーテについて話すのをすっかり忘れてたな。俺はアフロディーテが双魚宮から教皇の間への道のりに魔宮薔薇を敷きつめ始めた時期を覚えている。あいつが、サガを敬慕していたことも。
これも仕方のない話だ。だれだって赤の他人と自分の大切な人間が入れ替わっていたら、すぐに気が付く。訂正しよう。聖域で、教皇の正体を知り、それでいて彼に従っているのは俺ひとりだけじゃない。
俺は、双魚宮に招かれた際、はじめて間近で魔宮薔薇の群生を眺めたときに味わった衝撃を忘れないだろう。しんと静まりかえった道が、紅い薔薇で埋めつくされて山の頂きまで続いている。それは貴人を迎えるための緋絨毯にも、咎人が歩んでいくだろう血塗られた隘路にも見えたのだ。
この場所には決して風が吹かないのだと、アフロディーテは言った。万が一、俺たちが宮に留まっているときに風が吹き下ろせば黄金聖闘士は全滅するな、一番最初に死ぬのはお前か? と冗談めかして尋ねると、あいつは笑いながら答えたものだ。
そんな仮定の話はするだけ無駄だがな。第一、私には薔薇の毒など効かない。たとえ風が薔薇の香を運ぶにしても、宝瓶宮まで届く頃には、ほぼ無害といっていいほど薄まっている。どちらかといえば、風が吹き上げた場合が問題だな。教皇と女神の御身にもしものことがあれば、私も生きてはいまい。だから私を殺すのは薔薇ではないのだ。
俺は思った。風が山頂に向かって吹けばいいと思った。すべての重荷を下ろして眠りに就くサガの、安らかな寝顔を思った。
正義であることと、罪を持たないことは別次元の問題で、だからサガも俺も、おそらくはアフロディーテも、同じ罪人だ。俺たちが何をしたか、いつかすべてが明るみに出され裁かれる日を、俺は夢想する。風はそのときにこそ吹くのだろう。その風は種を運び、舞い散った紅い毒薔薇の上に、色とりどりの罪なき花を咲かせるはずだ。
自分自身がそのときに生き延びていられるかどうかについても、俺は考えるのを止めることにした。俺は俺の正義に従って生きるだけなのだから。女神の聖闘士として。もう居ない女神を護ることはできないが、せめて彼女が愛した地上を、彼女が愛した聖域を、護るために。
作品名:風と花と二十三の私と 作家名:まさω