フリークスの楽園
前半:静雄視点
ある日、折原臨也は、平和島静雄に関する記憶をなくした。
正確に言えば、高校時代の記憶の殆んどと、高校時代に出会った人間の記憶の殆んどを失ってしまったらしい。
治療にあたった闇医者曰く、
「頭部外傷による逆行性の部分健忘だね。臨也自身のデータと、自分が情報屋だということ、情報を集積する技術は忘れていないみたいだよ。それにしても、僕はともあれ、不倶戴天の敵である君のことを覚えてないなんて、驚きだよね」
折原臨也の秘書だという女曰く、
「私個人としては、彼がコンクリート詰めにされて東京湾に沈められようと、切り刻まれて山林にばらまかれようとまったく興味はないのだけれど、仕事上は困るのよ。彼の顧客は高校時代からの付き合いだった人間が多いみたいだし」
そしてその秘書は静雄に頼んだ。「記憶が戻るまで、折原臨也といて欲しい」と。
「…なんでそういうことになるんだ」
それは当然の疑問であったし、静雄は自身がそんな理知的な疑問を示せたことにいっそ驚いた。頼んだのが女だったからだろうか。これが例えばその辺をタムロしているチーマー風の男だったとしたら、そんな頼みごとをした瞬間に1キロ先のコンビニくらいまで殴り飛ばしていただろう。
「高校時代に臨也に強く印象付けられている人間が近くにいれば、脳を刺激して記憶が戻りやすいと思うんだ。3年間、年がら年中殺し合いをしていた静雄だったらまさに適任だろ?」
「断る。ノミ蟲と同じ空気を吸うだけで吐き気がする」
「そうは言っても、ことの発端は君が投げた自販機が臨也の頭に当たったことだろ? たとえその前に臨也の挑発行為があったとしても、責任の多くは君にあると思うよ」
「………」
静雄は思わず眉間に皴を寄せた。自分にとっては、視界に入るだけで虫唾が走るような男だが、他の人間にとっては必ずしもそうではないかもしれない。自分とは違い、新羅や門田は、臨也とそれなりにまっとうな友情を築いていたはずである。それが自分のせいで失われてしまったのだ、と思うと、親の仇ほどに憎い男のこととはいえ多少の罪悪感は覚える。
「それに、診察した感じだと、おそらく一過性のものじゃないかな。多分、ほんの数日で記憶も戻るよ」
その言葉だけを頼りに、静雄は臨也との共同生活を営むという、絶望的な状況を受諾した。
静雄と波江の短い話し合いの結果、臨也が静雄の家で暮らすこととなった。静雄の職場が臨也の住む新宿からは遠いし、静雄は自身の生活のリズムを崩したくはなかったからだ。その点、臨也はノートパソコンさえあれば当座の仕事はこなせるという。
「君との同居のことは、臨也にはもう話してあるんだ。記憶を取り戻すための近道になるからって了承してたよ。ただ、一緒に暮らす都合上、君のその特異体質のことは話してないんだ。話すと、臨也が同居を拒絶する可能性が高いからね。あと、君の事を、高校からの親友だって言ってある」
静雄を記憶をなくした臨也に会わせる際に、新羅はさらりとそんな恐ろしいことを言った。
出会えば挑発し合い、自販機を投げつけたり、それに応えてナイフを構えて本気で切りかかってきたりする関係を親友と称するならば、人類は大抵友人だろう。世界はとっくに完全な平和を手に入れていたはずだ。
そんなことを考える静雄をよそに、新羅は臨也がいるという診察室のドアを開けた。
ドアを開けると、中ではファーがついた黒いコートを着た見慣れた姿が、闖入者を見上げていた。この男に静雄が自販機を当てて、意識を失ったその体を面倒に思いながらも新羅のもとに運んだのは今朝のことだが、見たところ包帯も巻かれてはいなかった。外傷はたいしたことはないらしい。
「お待ちかねの人が来たよ」
「その人?」
「そう、彼が平和島静雄君。7年来の君の親友さ!」
「なんか俺とは人種違くない?」
「友情に人種は関係ないよ、臨也。君たちは、はたから見ればちょっと仲が悪そうにも見えたけど、刺激しあいながら、互いに信頼しあう親友としてうまくやっていたよ」
「そうなの? 波江さん」
「…私はあなたの高校時代のことなんて知らないけれど、彼があなたにとって、とても刺激的な存在であることは確かよ」
「ふうん」
あまりにおぞましい会話に、ほとんどフリーズ状態だった静雄を見た臨也が、ようやく静雄に声を掛けた。
「よろしく、平和島…静雄君? 呼びにくいからシズちゃんでいい?」
ぴきり、と音を立ててこめかみに血の筋が浮かぶのが分かる。本当にコイツ、記憶なくしてんだろうなあ、という疑問を、怒りを乗せて視線で新羅に問いかけると、悟った新羅が、静雄にコクコクコクと頷いた。
「そ、それでいいんじゃないかな、以前の君もそう呼んでたし」
「新羅、テメェ」
後で覚えてろよ、と睨みつけると、新羅は冷や汗をかきながら静雄の職業等を紹介した。
「借金取立人? じゃあなんでバーテン服着てるの?」
憎くてたまらない赤みを帯びた瞳が静雄を見上げて尋ねてくる。
静雄は、この瞬間までどこかで、この男が記憶喪失になるなんて嘘だと思っていた。だが、静雄の格好を物珍しげに見る臨也の瞳には、あるはずの侮蔑と嫌悪の色がなかった。本当に忘れているのだ、と動物的な感覚を持つ静雄も認めざるをえなかった。
「…昔バーテンだったんだよ。その名残だ」
「へえ。やめちゃったの?」
誰のせいでやめることになったと思っている。再び、ぴきりとこめかみが鳴った。
「…なんかすごく睨まれてるんだけど。本当に彼、俺の親友なわけ?」
「静雄はツンデレだからね」
「デレ部もあるんだ?」
そんな新羅と臨也の会話を、眩暈を覚えながら聞く。
その後、臨也を残して診察室を出た静雄は、新羅に自分の希望をあわせたような質問をした。
「一発殴れば治るんじゃねえか?」
「静雄、そんな昔のテレビじゃないんだからさあ。記憶が戻ったら、全身の骨を折るなり関節を全部逆に曲げるなり、好きにすればいいけど、今の臨也は君のことを、喧嘩は強いけど普通の人間くらいに思ってるんだから、極力殴らないようにね」
「………自信ねぇ」
「それと、数日で治るとは思うけど、もし記憶が戻らなかったら、一週間後くらいにまた診察に来るようにね。これは後で俺から臨也にも言っておくけど。じゃあ頼んだよ、静雄」
「一週間……」
もしかしたら自分は、そんなに長い期間、あの男と一緒にいないといけないのか。静雄は文字通り、絶望的な気分になった。
これが、歪つな楽園がつくられる発端となったできごとだった。
○ 1日目
「随分と殺風景な部屋だねえ」
というのが、静雄の家に来たときの臨也の反応である。
実際、静雄にとってこのアパートは、帰って寝るためだけのようなものなので、さほど多くのものは置いていない。大した家財もないからこそ、まったく信用できないこの男を住まわせることもできるわけだが。
臨也は、その少ない家具の中で、リビングキッチンにあるテーブルにノートパソコンを置いた。どうやらそこを仕事場と決めたらしい。そして、最低限の日用品が入っていると思しきアタッシュケースを置いてから、忌々しい笑顔で口を開いた。
「ねえ、コーヒー飲みたいんだけど」
「……」
「コーヒー飲みたいんだけど」
「……」
「ねえ、コ」